さきに、慶長十年の摂津国絵図によって市域を通る近世初頭の道筋について述べたが(二五二ページ)、そのなかでとくにこの絵図に太い線でえがかれた幹線道路として、半町・瀬川から小浜を通り生瀬に至る道筋があることについて述べた。この道筋について、市域の範囲よりもう少し視野をひろげて考えてみよう。
近世も時代が少し下ると、京・山崎・郡山から瀬川を経て昆陽・西宮へと通じる道筋、すなわち西国街道が主要街道となってくるが、慶長の国絵図では、この道筋はまだ太い線でつながっていない。幹線道路は、①京・山崎・郡山・瀬川・小浜・生瀬の道筋と、それとは太い線で結びつくことなしに、②西宮・昆陽・伊丹・神崎・大阪の道筋がえがかれ、さらにその南に、③兵庫・西宮・尼崎・大阪の道筋がえがかれている。①の道筋と②の道筋とは、いくつかの細い道で結ばれてはいるが、並行する別々の幹線道路としてえがかれていることが注目される。この点慶長の国絵図の描写は、つぎに述べる慶長十一年の文書の叙述とも符号しており、したがって当時の幹線道路を正確にえがいているものと判断してよい。
慶長十一年の文書というのは、片桐且元が山崎表衆庄屋および郡山と小浜の馬方中にあててだした「摂州之内駄賃馬荷附之所」に関するつぎのような内容の触書である。
一京・伏見より之上下は山崎にて荷物附かへ可申、但ひろせ村は山崎ヘ一所に可相加事
一従山崎郡山まで上下可有之、宮田(富田カ)と郡山は一所に相加り小浜まて上下可致之事
一瀬川・半町村は小浜へ相加り、則小浜にて致付落、兵庫・西の宮・尼ヶ崎・なま瀬・有馬への上下如前可致之事
右此中所々にて荷馬共相とめ申に付、旅人迷惑之由訴訟申候間、如先規之山崎と郡山・小浜此三ヶ所に相究候、其外国中旧に相定之間堅可成其意候、猶小畑七右門可申候也(『大阪府誌』第三)
旅人たちが方々で荷物をとめられ荷継ぎさせられるので迷惑しているとの訴えがあった。そこで荷物の賃継ぎを少数の駅所に限定しようとしてだした触書である。内容を説明すると、
1 京・伏見への往来には山崎で荷物を付けかえること、ひろせ村は山崎といっしょになって山崎で付けかえること
2 山崎より西へは郡山で荷継ぎをし、富田は郡山といっしょになって郡山で荷の付けかえをやること
3 郡山より西へは小浜までとし、瀬川・半町は小浜といっしょになって小浜で付けかえること
4 兵庫・西宮・尼崎、あるいは生瀬・有馬での荷継ぎは従前どおりとすること
以上のことが規定されている。瀬川と昆陽を結んで京から西宮・兵庫へと向かう、のちにいう西国街道についての規定は、この文書においてもみられない。これによっても、慶長十年の国絵図がえがく幹線道路の表現に誤りのないことがわかる。そしてこの絵図と文書によって、小浜は、西は生瀬、東は郡山まで荷継ぎする京伏見街道の駅所、馬継ぎ所であり、しかも京・伏見まででは郡山・山崎と並ぶ主要な駅所であったことが明らかである。さらに小浜を通る京伏見街道、あるいは兵庫・西宮・尼崎の道筋(中国街道)においては、すでに慶長以前から駄賃かせぎ、馬継ぎがかなり整備していたことも推察される。