その後元和年間に伊丹・池田は駅所、馬借所の指定をうけている。
天正十七年(一五八九)豊臣秀吉は有馬温泉へ入湯に行くため伊丹を通り、魚屋町の岡田次郎左衛門の家に泊った。そのとき伊丹村は御用人馬の継立てにあたった。ついで慶長五年の関ヶ原の戦いのときにも伊丹村は御用人馬をつとめたことがあった。また元和三年(一六一七)諸国巡見使村上三右衛門が伊丹に泊ったときにも、御用継立てのために人馬を徴発された。このときには徴発の影響で、伊丹の商人の出荷する諸荷物の輸送がとどこおり、荷主の差しつかえになって大いに難渋した。そこで伊丹村では、さきの、天正・慶長に継立てをおこなった来歴を述べ、御用人馬を無料もしくは低運賃で継ぎ立てるかわりに、その助成として、特権的に近郷遠在の農民や商人の諸荷物を付け立てて駄賃・口銭かせぎができるようにと、幕府に宿駅の免許を願ったのであった。この願いは認められ、伊丹は元和三年継立て人馬二五人・二五匹の馬継所となった。そしてここに小浜・伊丹・大阪間の御用の継立てをおこなうことができるようになり、人馬賃銭を規定した制札を下付された。
ついで池田も元和七年に馬借高札をうけ馬継ぎ所となった。もっとも池田については、慶長十九年に権現様(徳川家康)の御朱印をうけて馬借の高札を立てたとする後世の史料がある。しかしこれは同年に池田が「十二日市日」(月に十二日市を開く)を認可する朱印状をうけたことと混同したものと思われるので、池田が宿駅となったのはやはり元和七年のことと考えたい。同年の馬借高札には、つぎのように人馬賃銭が規定されていたという。池田から多田院ヘ一里・駄賃六〇文、多田銀山へ三里・駄賃一三八文、小浜へ五〇丁・六五文、昆陽へ二里・一〇〇文、瀬川へ四〇丁・五〇文、大阪へ五里・二一〇文、そして丹波へいく「御侍方」については、池田から一里まではお定めの駄賃を申請け、それ以上の道については荷主と相対で駄賃を申請けるというのである。池田は瀬川・小浜を通る京伏見街道からそれて北に位置する在郷町であるが、伊丹とともに江戸積酒造業が展開しつつあり、駄賃かせぎが有望であったこと、多田銀山御用荷物や多田院社参武士の荷物の御用などがあったこと、丹波との交通路にあたったことから宿駅の指定をうけたわけである。
ここに小浜は京伏見街道のみならず伊丹・池田への継立ても当然おこなう権利を得たわけであるが、ともかく伊丹や池田よりも早く、もっとも古く重要な宿駅、馬継ぎ所として、慶長以前から重要な位置を占め、元和期にさらに発展をみせたことがうかがえる。