生瀬・西宮荷物の争奪

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 こうして元和年間には、小浜が御用荷物の馬継ぎをつとめる範囲、そして御用の代償である商人荷物の継立てによる駄賃かせぎをする範囲は、西は生瀬まで、東は瀬川(おそらく郡山までではなかったろう)・池田までとなり、南は伊丹までの範囲となったと思われる。
 ところが、有馬郡や北播磨あるいは丹波方面から生瀬へとでてくる諸荷物が生瀬から西宮へと送られることも多く、この荷物をめぐって小浜と西宮との間に慶安四年(一六五一)争論が起きている。「西宮町中」の名でだした同年十月二日の訴状をみると、西宮はつぎのように主張している。
 

写真146 小林にある西宮道の道標
右中山道・左西宮道小林3丁目


 
 西宮は、西は兵庫、東は尼崎・昆陽までの馬継ぎ所であり、小浜は「京伏見海道之馬次」である。生瀬―西宮の街道を有馬郡や丹波からの諸商人の荷物や篠山藩・三田藩の大阪送りの年貢米が年々大量に通過するが、この道は、西宮・今津と生瀬の三ヵ村の馬道で、他の宿駅のものが通る道ではない。ところが、去る九月二十一日に小浜のものが、武庫川右岸の生瀬―西宮道へでてきて西宮馬荷物をさしとめた。別に西宮と小浜を結ぶ道があるが、それは両宿駅の商人荷物が通るだけで、旅人荷物を継ぐ道ではない。西宮はこのように述べて、小浜が生瀬―西宮道へでてきて荷物をさしとめたことの不当を訴えている。
 この訴訟の結果は明らかでない。しかし少なくとも小浜がこの道筋にでてきて荷物の継立てをする権利を得ることには成功しなかったと考えられる。