村切り後も山境問題残る

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 前章第五節において、中世における荘・郷よりも、より小さな単位で近世的村が近世初頭に成立していく過程をたどり、そして寛永年間には村切りがほぼ完了したことについて述べた。この村切りは農村内の階級関係からいえば、荘・郷を支配していた荘園領主や在地土豪の勢力が衰え村々を構成する農民勢力が成長した動きにつれて、その機運が醸成され、進行したといえる。
 しかしこの村切りは、行政的には限界があった。太閤検地がそもそも田畑・屋敷の高を測り、年貢収取の基礎とすることが目的であったため、村切りといっても、田畑の高を村ごとに分け、村単位にその範域・村高を決定するにとどまり、山までも村ごとに分けて村切りを果たしたとはいえない。今日市域に残る太閤検地帳をみても、山あいの佐曽利村や大原野村の太閤検地帳でも、山についての記載はいっさいない。ということは、近世初頭には山境の方はなおあいまいであったことをしめしている。
 山は材木・薪を得る場所でもあるが、古代・中世、そして近世前期にはそれ以上に、肥料の調達場所としてたいせつであった。山の若葉・若草を刈り取ってきて、それを田畑へ敷き込む、いわゆる刈敷(かりしき)肥料の中軸をなしていた。とくに山あいの村においては、近世に入ってもかなり長く山草を肥料に用いる状態がつづいた。
 そのような山の利用がつづくなかで、近世初頭に田畑を中心とする村切りが進行していくとき、山についても村ごとの利用範域、つまり山の境界が問題になっていくのは自然のなりゆきであった。のちに述べるように延宝検地において、幕府は直領村々に対して山林原野・池・川・堤などをしるした絵図をつくらせ、山林原野をも検地の対象とし、山林原野に対して山手米・草山手米や入炭代・薪代などの小物成を課するようになるが、この延宝検地を契機にとくに村々の山境が問題となり、山論が相次ぐこととなった。それは山あいの西谷地区の村だけのことではなく、市域の他の地区、平野部の村においてもみられた。
 以下まず延宝検地以前、近世初期に起きた市域の山境争論について述べよう。