①浄橋寺山争論 川面村ほか多田領組子二四ヵ村と生瀬(なまぜ)村(西宮市)との間で浄橋寺山をめぐって山論が起きた(図7参照)。
川面以下二五ヵ村の側は浄橋寺山を含めて青野道より北は川面・安場両村立会の領分であるとして生瀬村を訴えた。これに対して生瀬村は、浄橋寺山を自領であると主張したものである。奉行所は長崎半左衛門元通(もとみち)以下四人の検使を立てて見分させ、双方の申し立てを聞いたうえで絵図を作成し、寛永九年(一六三二)裁許を下した。そのときの決め手となったのは生瀬浄橋寺に下された寛元元年(一二四三)五月二日の後嵯峨天皇綸旨であった。この文書に、浄橋寺の田畑・山林の四至(しいし)について「河東分之事 東限覆盆子(いちご)谷、北限花折嶺」と記載されていることが証拠とされ、生瀬村と多田領組子村々との境界は、十河川(惣川)が武庫川に注ぎ入る地点から西谷へと通じる長尾道をかぎり、それより西の部分、そして花折ヶ峰の峰より南とその西の斜面は武庫川までが生瀬村領であると裁定された。生瀬村側の勝訴となったわけである。
②船坂山東南部山論 承応二年(一六五三)五月、船坂山東南部をめぐって船坂村(西宮市)と蔵人・鹿塩両村の間に山論が起きた。船坂村はこれまで山手銀を取って近郷の小林・伊孑志・生瀬村の農民に論所の柴木を切らせている。この先例からみてもこの山は自村の山にまちがいないとして訴えた。奉行所が小林・伊孑志・生瀬の者を呼びだして聞きただしたところでも船坂村の主張にまちがいがないので、同年八月二十九日裁決が下され、武庫・有馬両郡の境、座頭谷の東、枝川通りの牛ヶ首というところから境目(さいめ)川筋までをかぎり船坂村の山と定められ、船坂村の勝訴に終わった。
③米谷・中筋村と中山寺村の立会山問題 中山寺はもとは、中山寺奥の院のある付近の山上にあったが、荒木村重の兵乱にかかって焼けてしまった。それを機会に、寺は山のふもとの現在地に移り、あらたに寺地を定め、慶長年間に豊臣秀頼から寄進をうけて、諸堂が再興された。
さて寛文五年(一六六五)寺社領・朱印地の調査が幕命でおこなわれた。市域では清澄寺・中山寺・平林寺などが報告をだしているが、そのときそれを聞き及んだ米谷・中筋両村は、古中山寺境内地等の山林を中山寺が自村のみの山として報告したのではないかと心配したようである。そこで同年五月両村は、この山が米谷・中山寺・中筋三ヵ村の立会山である旨をしるした文書を提出している。後年中山寺村もこの山が三村の立会山であることについて異論をとなえていないところをみると、米谷・中筋が心配したようなことにはならず、問題が山論にまで発展することなくおさまったようである。
④波豆村南西部郡境争論 寛文年間波豆村と有馬郡山田・桑原・高次・三輪四村(以上三田市)の間に争論が起きた。論所は、いま千刈水源池(旧羽束川筋下流)へ羽束川が流れ込む地点の西南方、普明寺のある波豆山の西方にあたるかやが原山である。そこへ波豆村の農民が五年前から入り込み新地を開発したため争論となった(図8参照)。
山田村以下四ヵ村の主張はつぎのとおりであった。波豆村が新開したところを四ヵ村が差し止めようとしたが承知しないので、寛文元年(一六六一)三月十七日にそこへ来ていた波豆村の農民の鍬を取りあげた。それからは波豆村の農民がかやが原山へ来なくなったので、四ヵ村の方からは訴えを起こさずにいたところ、かえって波豆村は新開の地を検地帳にのっている土地などと主張して横領をくわだて、大阪町奉行所に目安(めやす)(訴状)を提出した。このため四ヵ村は大阪町奉行所へ数度も呼びだされ、取調べをうけた。結局寛文五年八月検使を下す旨の裁許があったが、奉行が江戸へ下ったため検使が派遣されないままとなった。そこで四ヵ村ではあらためて同年十二月訴状を提出し、これまでの経緯を述べ、さらに四ヵ村が有馬玄蕃頭則頼(げんばんのかみのりより)の所領であったころから、かやが原山の高は各村一石七斗ずつで、四ヵ村合わせて六石八斗として高に入っており、以来今日まで数代にわたって年貢を納めてきたことを述べて訴えた。
これに対して波豆村も寛文六年四月訴状を寺社奉行に提出し、この地は波豆村の水帳に入っている五反二畝二五歩の地であること、それを桑原村のものが荒らしたと訴えた。
結局双方相談のうえ大阪の絵師に頼んで論所絵図が作成されたが、同年七月二十日江戸において裁許が下された。その裁許絵図の裏書には、摂津一国の絵図を調べたところ、論所は有馬郡に属することが明らかである。よって波豆村は今後論所に入り込まないようにせよ。そのため郡境を墨書し、かつ印判を加える旨がしるされた。その裏書のとおり、表の絵図には郡境が墨で太い線で書き入れられ印判がおされている。裏書の末尾には、老中稲葉美濃守正則・同久世大和守広之以下寺社奉行・町奉行・勘定奉行ら一一名が連署している。
⑤仁川左岸村境争論 寛文年間鹿塩村と大市庄五ヵ村(段上・上大市・下大市・門戸・神呪、以上西宮市)ならびに蔵人村との間に、境界に関して山論が起きた。訴人である鹿塩村の主張はこうである。鹿塩村と大市庄五ヵ村とは、仁川の川上大井滝より西、北ゆりの大谷までを古来領境としている。しかるに五ヵ村が北ゆりの大谷を越えて鹿塩村の山に入り込み、松木を切り川除(かわよけ)のしがらみをくずしてしまった、というものであった。一方また鹿塩村は、自領の西河原を再開発したところ、それを蔵人村が堤を切りくずし、その土地へ土砂をもち込んだとして、蔵人村をも相手どって争論を起こした(図9参照)。
これに対して、まず大市庄五ヵ村は、鹿塩村との村境は岩尾高丸山から、下は中堤をかぎる線であるとし、また蔵人村は、鹿塩村との境はねん谷の尾根筋をかぎり、八町原の北々西の平山には境塚もあって領域は明らかである。それを鹿塩村がこえて、ねん谷を新開したので迷惑していると主張した。
中村杢右衛門之重(もくえもんゆきしげ)以下三人が検使として派遣され見分したが、証拠はいずれも不分明であった。そこで京都所司代はまったくあらたに領域を定めることにし、寛文九年(一六六九)九月七日裏書のある裁許絵図を下付して、つぎのように裁決した。鹿塩村と大市庄五ヵ村との論所へは双方の村から入れる道筋があるので、この地は立会山のようにもみえるが、ここにあらたにつぎの線を村境とする。仁川の川端―荒畑―鷹ヶ峰―馬ヶ背の峰を見通し、長坂山は、道筋をかぎる。その道の行きどまりより町間地までを見通し、南を大市庄五ヶ村の支配地、北・東を鹿塩村の支配地とする。五ヵ村の者は鹿塩村の川除のしがらみをくずし、山の木を切った科(とが)によって籠(ろう)(牢(ろう))舎(しゃ)のうえ過料を申しつける。
また蔵人村との境についてはねん谷口より町間地までを見通し、南を鹿塩村領、北を蔵人村領とする。こう裁決して山論は落着した。
⑥小松尾山山論(一) 寛文十年(一六七〇)小林村が生瀬村の小松尾山に入り込んだとして、その領有をめぐって生瀬・小林両村が争った。そのときは正式の訴訟にはならず小林村の非分であることが明白となり、同十二年からは、小林村は山年貢を生瀬村に納めて小松尾山を利用することに話がついたらしい(三六四ページ参照)。