以上近世初頭、寛文年間における山境争論について述べた。当時はまだ村と村との間の山の境界はかならずしも明確になっていなかった。この山境問題をもえあがらせ、その解決・確定の方向に一歩を進めたのは延宝検地である。そこで延宝期に続発する山論について述べるまえに、延宝検地ならびにそれと並行しておこなわれた御料巡見についてみておこう。
延宝五年(一六七七)三月幕府は関東御蔵入地と上方(かみがた)御蔵入地に対して巡見をおこなうことを発表した。ここで上方御蔵入地というのは、具体的には畿内五ヵ国と近江・丹波・播磨・備中の直領村々および讃岐の直島・小豆島をさしている。直領の郡代・代官は勘定奉行の管轄下におかれていたので、このときにも巡見を担当する勘定衆や巡見をうける直領の代官に対しては、勘定奉行から諸事連絡・指示がなされた。
摂津の巡見使は赤坂孫七郎正相(まさすけ)ときまった。そのほかに上方御蔵入地(直領)の巡見役として下島市兵衛政真(まさざね)(山城)・竹村九郎右衛門嘉敦(よしあつ)(大和)・下島甚右衛門政武(まさたけ)(河内)・設楽(しだら)勘左衛門能久(よしひさ)(和泉)・金丸又左衛門某(近江)・遠藤新兵衛信澄(のぶずみ)(丹波)・守屋伝左衛門政明(まさあき)(播磨)・内崎角兵衛正勝(まさかつ)(備中と直島・小豆島)が発令された。
巡見のことは関係諸国の代官にも伝えられ、それに関する指示が与えられた。すなわち巡見使が京都に到着するまでに一国絵図を作成しておき、諸事巡見使と打合わせができるように準備すること、巡見にあたって代官や村々は一村単位の絵図(一村切絵図)および代官支配地単位にまとめた村々の絵図帳、反別取箇(とりか)帳などを用意すること、人別帳はとくにくわしいものは必要でなく、反別取箇帳の末尾に人数・家数・牛馬の数を書きしるす程度でよいこと、巡見使通過のためにとくに道・橋の掃除などする必要はないこと、宿泊所・昼の休憩所ではとくにご馳走(ちそう)する必要はなく、定められた木賃(きちん)でまかなうよう宿泊所へ連絡しておくこと、宿場の問屋・馬方が巡見使を送迎する必要はなく、巡見使が御朱印伝馬以外に人馬を使うときには、規定どおり御定め賃銭を支払うので承知しておくこと、などといったことが代官に伝えられた。
上方御蔵入地に向かう巡見使たちには、京都に到着して諸準備をすすめるうちにも、勘定奉行から巡見にあたっての要領が指示された。そのいくつかを拾ってみると、つぎのようなものがある。直領代官の仕置きのよしあしを調査すること、困窮の村があれば事情を調査して掛り物(諸税)などを細かに聞きただし、名主(庄屋)の横領がないかどうか。年貢は小百姓までみせて割りつけているかどうか。畑を田にしてよいところがないかどうか。隠し田がないかどうか。荒れ山で林になしうるところ、新田になしうるところはないか。洪水のさい堤が危ないところはないか。村民の自普請では手に余るところはないか。逆に公儀御普請地に定められたところで、自普請に切り替えた方がよいところはないか、などということであった。そしてとくに六月になって、直領のうち絶対に私領にしてはいけない所については、その様子をつぶさに見分し、覚書に書きとめておいて報告するように指示されている点が注目される。なお、この巡見と並行しておこなわれる検地との関連については、検地をおこなっている場所を通りかかった場合に、検地奉行から懇請があれば検地を見分してもよい。しかし手間取るような場合や巡見の終わった村については、見分を懇請されてもそのまま打ち捨てて通過すべきことも指示している。