近隣大名に検地を委託

342 ~ 342 / 602ページ
 ところでこの延宝検地にあたって幕府が直領の郡代や代官に検地させずに、近隣の大名にこれを担当させている点が注目されよう。慶長のころには郡代や代官が検地をおこなってきたし、そのため伊奈忠次の伊奈流とか大久保石見(いわみ)守長安の石見流などという独自の検地技術が郡代・代官の間から生まれたほどである。しかし延宝のころには、彼らに検地を担当させることにいささか問題が生じていた。それは、代官と農民とのなれあいによって検地がおこなわれ、不正の生じることが懸念されるようになったからである。そのような不安が生じた原因はといえば、ひとつには、彼らの多くが幕初以来父祖引きつづき郡代・代官の役をつとめてきたことによる、慣れが原因としてあげられよう。また近世初期の郡代や代官は、かつての中世の土豪のような支配感覚から抜けきれず、したがって年貢請負人的な性格がまだ強くて、幕府と農民との間に立って単に年貢徴収官吏的役をつとめる、というような性格のものになりきれなかった古さにも原因があろう。あるいはまた代官所の経費は本年貢に付加して徴収する口米をもってまかなうことになっていて、使いこみが生じやすい仕組であったことにも原因があったであろう。ともかく諸事情が重なって、代官の年貢使いこみ、年貢滞納がしだいに目にあまるようになっていたのであろう。このため検地のことも、彼らにさせず、平素直領地の農民と関係のない大名にさせることにしたものと思われる。