直領の巡見と検地に関する幕府の指令や条目について、以上かなりくわしくみてきたが、この幕令にもとづいて宝塚市域でどのように巡見と検地がおこなわれたのであろうか。
まず巡見については、代官中村杢右衛門之重が延宝五年四月に支配地村々(表47参照)に対してだした絵図作成要領とでもいうべき「一村切絵図仕立様之覚」と、巡見のさいの心得をしめした「覚」が残っている。このうち絵図作成要領では、記載すべき事項としてつぎのようなことを指示している。すなわち山方・里方の区別、東西南北、村を通る街道・脇道から主要な町・村に至る里程、田畑については検地の年代・検地奉行名・村高・品等別斗代、小物成はその年額、他領主と入組になっている村では相手の領主・代官名、山林は公儀(幕府)の御林か百姓持ちかの別と縦横の間数(けんすう)、生えている木の種類、寺社や朱印地については朱印状など証文の有無などをしるすこと、というものであった。
つぎに土地区分については、田や畑は紙色、道は朱色、堤は墨色、山は草の汁色、永荒場は黄色というふうに色わけするよう指示し、末尾に、この絵図は上質の美濃紙二、三枚程度の大きさの小絵図に作成し、三葉提出するように、としるしている。
中村代官がだしたこの作成要領にもとづいてつくられた絵図が市域に残っている。下佐曽利村の絵図がそれである(口絵参照)。縦五六センチメートル・横三六センチメートルの小さな絵図で、別に村高その他をしるした紙が貼付(ちょうふ)されている。しばらく口絵カラーの村絵図にしたがって、記載の様子をみていこう。
下方に田畑・道などの色分けが書かれてあり、その左、南方へ下る道筋には「此道筋より京へ拾五里、高槻へ拾壱里」、あるいは「隣村大原野村へ十九町」などと里程が書かれている。絵図中央を南下する川(佐曽利川)の両岸にある田畑は、上田・中田・上畑などの品等を書き、中央左には「下佐曽利村 家数三拾七軒」としるしている。その村名の上方にえがかれている一軒の家には「屋敷[長拾五間 横四間]但、本高ノ外往古より除地、証文ハ無之」とある。下方色分けをしるしたところのうえに書かれている池堤はたとえば「此池堤長拾八間[根置三間・高壱 間半・馬踏壱間] 状樋[長四間弐尺・内法四 寸四方・板厚弐寸]立樋有」などとしるしてある。また絵図上方の山に例をとると、つぎのような記載がある。
此山形[長三拾三町程、但北ハ上佐曽利村領境を限、南ハ川を限、
横均九町程、但東ハ長谷村領境を限、西ハ田地を限]
是ハ百姓山、内林柴草山小松所々ニ有之
右山ニて薪取・牛飼場并田地こやし草取之
但、村より道法十五町或二三町
絵図の左に貼付された紙には、文禄三年(一五九四)の石川久五郎の検地高、田畑の品等別斗代、小物成、そして万治三年(一六六〇)の麻田藩青木甲斐守縄(測量・検地)と延宝元年の代官中村杢右衛門縄によって生まれた新田高がしるされている。
以上のような記載事項は、さきにあげた作成要領に合致した書き方であって、総じてこの下佐曽利村絵図は、作成要領にしたがってえがかれたものであることが、よくわかるのである。
このように中村代官の指示によってつくられた絵図は、市域外ではあるが、川辺郡一庫・見野・西畦野(うねの)(以上川西市)にも残っており、いずれも同じ要領でえがかれている。巡見使の用に供すると同時に、延宝検地条目が定めた検地の用にも供する村絵図として利用されたのであろう。