延宝検地帳

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 つぎに市域における延宝検地の状況についてみてみよう。
 当時市域村々のうち幕府の直領であり、延宝検地の対象となった村は一三ヵ村であった。そのほとんどは代官中村杢右衛門の支配地であり、ほかに代官五味藤九郎の支配地があった。表47にしめしたとおりである。中村は川辺郡北部、いわゆる多田銀山付村々を支配した代官であり、五味は川辺郡中部、昆陽・新田中野・千僧(せんぞう)・寺本・野間(以上伊丹市)・友行村(尼崎市)などを支配した代官であった。さきにも述べたとおり、延宝検地を担当する大名は、代官支配地を単位に村を割り当てられた。それにしたがって、中村代官の支配地村々は高槻藩永井直時が、五味代官の支配地村々は尼崎藩青山幸利が検地することとなったわけである。
 永井氏・青山氏はともにそれぞれ担当する村々をかなりの時日を費やして検地したと思われる。永井氏の場合でいえば、延宝五年十月十八日に検地した川辺郡国崎村(川西市)の検地帳の日付も、六年正月下旬に検地した中山寺村の検地帳の日付もすべて延宝七年八月七日となっている。このことからも検地の事後処理を含めるとかなりの時間を要したことが推察される。今日残っている延宝検地帳をみると、永井氏がおこなった村の検地帳の日付はすべて統一して延宝七年八月七日となっているが、青山氏の検地ではそうなっていない。小浜村検地帳の日付は延宝五年九月二十二日、千僧村は九月十三日、新田中野村は十八目、昆陽村は二十九日、野間・寺本村は九月晦日(みそか)、友行村は十月二日付というふうに、日付はまちまちである。実施したあと、順次日付を入れたものと思われる。
 高槻藩永井氏が担当した検地は、検地惣奉行安達文右衛門・検地元締安井佐右衛門・新城喜太夫でおこなわれ、尼崎藩青山氏担当の検地は検地総奉行山口治郎右衛門・元締久代佐右衛門・松下吉右衛門でおこなわれた。それぞれその下にじっさいに村々を検地した検地奉行がいたので、その人名はとうぜん村によって異なっていた。永井氏の場合では、下佐曽利・長谷・大原野・境野村の検地奉行は、早川平左衛門・志水六右衛門・中一左衛門・池田弥三右衛門の四名、中山寺村の奉行は、小倉藤左衛門・柘植(つげ)吉左衛門・佐藤長兵衛・久世(くぜ)利左衛門の四名というふうであった。青山氏が担当した検地ではつねに検地奉行として六名が名を連ねており、小浜村では岡田三之助・伊藤二郎左衛門・林武右衛門・水谷六右衛門・萩原□(善カ)九郎・富田伊右衛門の六名であった。
 検地帳記載の形式と項目については、検地条目に規定されている。さきに条目の内容を紹介したときには、記載の形式・項目に関する条項は説明を省略したが、この条目にしたがって、検地帳にはまず田畑・屋敷地一筆一筆について地目・品等の別、土地の長さ・幅・面積・高・名請人・分米・斗代をしるし、その記載の右肩に地字・古検(太閤検地)の面積をしるしている。つぎにその面積と高(分米)を田畑・屋敷地ごとに品等別に集計し、それをさらに合計して新村高がだされている。それにつづけて検地帳には「右之外」として山林の面積と山手米、柿・茶園などの小物成などが書かれ、そのあとに日付と検地惣奉行以下元締・奉行、さらに各村の庄屋・年寄・地引(竿取)案内之者が署名捺印(なついん)しているのである。