検地高の増加

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 検地帳の記載内容は以上のとおりであるが、市域における延宝検地は太閤検地などと比べてどのように村高・面積に変化が生じたであろうか。それを表示すれば表48のとおりである。ここに表示した村々のうち太閤検地高が判明する村は少ない。わずかに中山寺村が一四石八斗七升、佐曽利村(上・下佐曽利村)が三九〇石九斗であったことがわかっているだけである。他の村については表43(三〇八ページ)にしめした慶長十年(一六〇五)あるいは元和三年(一六一七)・正保三年(一六四六)の村高がわかるにすぎないので、ここでは、太閤検地高と大差はないと思われる正保三年の村高を、新たにおこなわれた延宝検地の村高と比較してみる。延宝検地の村高は正保の村高に比べて小林村で六二・一%の増、長谷村で二三・四%の増、大原野村で三二・八%、境野村で五七・七%、小浜村で三二・六%、中山寺村で〇・一%の増加となっていて、かなりの増加ぶりである。
 

表48 古検と新検の村高・面積の対照

村名 正保郷帳村高 新検時の古検有高(有畝歩) 出高 古検にない分 小物成場高 新開高 新検高
竿先出目 位違出目
石合 石合 石合 石合 石合 石合 石合 石合 石合
小林 534.160 617.009
畝歩
(10264.22)
11.208
畝歩
(141.02)
206.727 217.935
畝歩
(141.02)
.960
畝歩
(12.00)
畝歩 23.697
畝歩
(366.01)
859.601
畝歩
(10783.25)
下佐曽利 402.460
上佐曲利とも
千本山見取場
164.221
(1910.08)
(73.16)
28.885 28.885 1.356
(15.02)
1.266
(42.06)
2.500
(63.23)
198.228
(2031.09)
(65.04)
長谷 254.537 242.260
(2259.23)
57.604
(533.18)
4.207 61.811
(533.18)
3.369
(31.13)
6.984
(122.13)
314.424
(2947.07)
大原野 558.220 549.977
(5572.29)
110.214
(1074.17)
43.737 153.951
(1074.17)
6.950
(86.20)
30.381
(637.29)
741.259
(7372.05)
境野 139.060 129.956
(1679.03)
45.465
(506.26)
20.558 66.023
(506.26)
2.210
(22.03)
21.064
(418.03)
219.253
(2626.05)
小浜 70 89.634
(746.23)
.436
(3.19)
2.758
(31.17)
92.828
(781.29)
中山寺 140.870 131.415
(1194.25)
6.75.3
(60.04)
2.812 9.565
(60.04)
.128
(1.05)
141.108
(1256.04)

 
 延宝検地をおこなうにさきだって幕府は巡見使に対してつぎのような検地に関する指示を与えた。今回の巡見とならんで検地もおこなうので上方の農民はことのほか迷惑がっている由である。上方へ行ったときには、村の名主(庄屋)にまず言いわたすべきことは、近年うちつづく洪水で農民もくたびれている。そのうえ長らく検地をしていないので土地の広狭や石盛などもちがってきていよう。地無しになっていてなお年貢を納めているところもあるように聞いている。そこで農民お救いのために検地を仰せつけるのであり心配することはないと、よくよく申しわたすように、というものであった。
 しかし古記のような村高の増加ぶりをみると、農民の検地に対する心配は、単なる杞憂(きゆう)であったろうか。検地によって地無しになってしまっている古検高が削除される効果はあるとしても、一方で丈量単位が六尺三寸一間から六尺一間に縮小したことからくる丈量面積の増加や高の増加(出目(でめ))、古検にない分の打出し、新開分の高入れなどがおこなわれた結果、村高にかなりの増加がみられたことは明らかである。中山寺村は中山寺の寺地が多い関係から高の増加はほとんどなかったが、他の村々での大はばな高の増加が年貢増徴につながる恐れはじゅうぶんあった。