そこで幕府は、新検によって村高が増加した場合も、新村高を基準に年貢を収取することをしばらく延期し、旧村高による収取をつづける措置をとったようである。北摂地方では、新検高による収取に切り替えたのは、検地後一〇年たった元禄年間であった。上佐曽利村の免状をみると、検地後も延宝八年・天和元年(一六八一)・貞享四年(一六八七)・元禄元年(一六八八)にいずれも本田高二二四石五斗七升七合に対して、年貢が課せられているが、元禄四年になって三二〇石七斗一升三合に対して課せられるようになっている。上佐曽利村の延宝検地帳はないが、三二〇石七斗一升三合が新検高にちがいなく、年貢の賦課基準が古検高から新検高に切り替えられたのは、元禄二~四年の間であることがわかる。
市域周辺の例もすべて延宝検地高への切替えは元禄年間であったことをしめしている。有馬郡上山口村(西宮市)の村高は元禄四年、土岐(とき)伊予守頼殷(よりたか)の所領となったときに切り替えられており、川辺郡木津村(猪名川町)は元禄二年に、見野村は元禄三年に切り替えられている。一庫村(以上川西市)の免状では元禄元年にはまだ古検高によっているが、同四年には新検高に変わっている。能勢郡吉川村のほう原・郷内山の山手米高は、元禄二年から新検できめた山手米高で上納するよう命じられた。
このような事例から、新検高への切替えは元禄年間であったことがわかり、延宝検地によって増加した村高による収取を延期して、検地に対する農民の不満の冷却をはかりながら、太闇検地のさいの比較的粗雑な生産力の把握を是正し、より正確に村高の適正と負担の公平化をはかったということができよう。