さて市域にある山で最も重要な位置を占めるのは、長尾山である。寛文五年(一六六五)の一文書によると、「大坂御代」すなわち豊臣氏の時代に、片桐且元によって長尾山の山親は切畑村と定めたといい、すでに文禄三年(一五九四)の太閤検地には浅野長吉の検地をうけ、銀一三〇匁の山手銀を上納することがはじまっている。もっとも検地といっても面積をはかったものではなかったと思われる。
長尾山の範囲は、東はあご坂・藤の森を限り、西は生瀬川(武庫川)を限る東西三里余、南は中山順礼道、北は南切畑村の村根(山と田畑の接点)を限る南北二里二二丁余の山である。もっともその地域内には切畑村農民の百姓持山が含まれている。その分については別に延宝検地までは一石八斗の山手米が課されてきた(表49参照)。この切畑村の百姓持山を除いた長尾山の部分が、切畑村を山親とし、豊島郡二ヵ村(北神田・南神田を一村と数える)・川辺郡五三ヵ村・武庫郡七ヵ村を山子とする六二ヵ村の入会山となっていたわけである。草山と称する東西二里二〇丁、南北一里二五丁余のところであった。
この六三ヵ村の入会山はさらに口山(内山)と奥山とに分かれ、口山の方は長尾山の山根(ふもと)の村々一三ヵ村(表50の*印を付した村)が永請けして利用しているところのもので、その口山の奥に六二ヵ村の惣山子が入会って利用する奥山があった。この山について延宝検地がおこなわれたが、それを機に山手米は銀一三〇匁から二六〇匁に増額され、六二ヵ村の山子は五八ヵ村(中山寺を含めれば五九ヵ村)に減じている。
延宝六年長尾山の検地を担当する高槻藩永井氏の検地元締安井佐右衛門から十月九日付の回状が山子村々に回されてきた。その内容はつぎのようなものであった。切畑村庄屋は村々が山手銀をだして毎年長尾山の草を刈り取っているといっているが、そのことにまちがいはないかどうか回答せよというものであった。これに対して山子村々は、このことにまちがいないとして、十一月村々一同が一紙に連判して回答した。村々連判のところには、村別に、これまで年々納入してきた山手銭の金額・村の領主名、村名、庄屋・年寄の名が書き連ねられている。
さらに十一月八日切畑村は永井氏の質問に対してつぎのように答えている。この長尾山の草山は、東はあご坂の根まで、西は生瀬川の渡し場まで、南は中山寺前の巡礼街道まで、北は南切畑村の内山つづきまでで、山子は豊島・川辺・武庫三郡のうち五八ヵ村である。中山寺の境内は長尾山内にある。昔はもっと山奥に堂舎があったが、往古より中山寺からは山手銀をとっていない。口山の奥に惣山子五八ヵ村が入り組む奥山がある。切畑村が山親として山子村々を支配している、と答えたのであった。
このような永井氏と村々との間に質疑応答がおこなわれたのち、長尾山の山手銀の改訂がおこなわれた。それを契機に入会山子の村数は六二ヵ村から五八ヵ村に減じた。それはつぎのような事情があったからである。従来山手銀は一三〇匁であったが、延宝検地を機に倍増されて二六〇匁となった。そこであらためて入会村として残るかどうかが永井氏から尋ねられたのである。すなわち入会村々はそれぞれ村高に大小があり、また口山をもつ村ともたない村とがある。これらを考慮して村々の負担額を協議せよ。もし山手銀の倍増を不都合と考えたり、道のりが遠いといった理由で今後山に入るまいと思う村々はその旨手形を提出するよう通達した。その結果、東桑津・西桑津・酒井・伊丹郷町のうち下市場(以上伊丹市)が山子から脱退することを申しでて、ここに山子の数は六二ヵ村から五八ヵ村に減じた。なお瓦宮村(尼崎市)は、延宝検地の少し前から切畑村に納める山年貢を滞納していたため、高槻藩から取調べをうけたが、この村も今後は山年貢を納入することを誓ったので、山子の地位を持続することになった。いま延宝検地以後の山親・山子について、延宝以前の山手銭米と延宝以後の山手銀とを表50にしめした。延宝以後切畑村は五〇一匁九分の山年貢を村々から集め、そのうちから二六〇匁を山手銀として領主(幕府)に納め、残りは山親において山支配のために諸入用に使われたのである。