さて延宝検地が山林原野をも対象として検地をおこなったことは、とうぜんいままであいまいであった村と村との山境の問題を燃えあがらせ、山境を確定する方向を進めることになった。検地とのかかわりをもって展開した山論としてまず米谷村と中山寺村との間に起きた争論をあげることができる。
①古中山寺境内争論(一) 延宝三年(一六七五)八月足洗川の西で米谷村が松を植えたことから、中山寺村と争論になった。両村は三年から翌四年にかけて、京都町奉行所において数次にわたって対決したが、米谷村の主張の要点はつぎのとおりであった。米谷村が松を植えた問題の場所は米谷・中山寺・中筋三村の立会山(長尾山の口山)のなかである。この立会山は天神川・丁子(てし)(勅使)川・足洗川・とち川という四筋の谷川にまたがり、肥料にするために三村が入り会って草を刈る立会山であった。しかし天神川から丁子川までの山は中筋村の支配、丁子川から足洗川までは中山寺村の支配、足洗川からとち川までは米谷村の支配というふうに、谷川を限って三村が松を植えて松林に仕立てる分担になっている。したがって足洗川の西で米谷村が松を植えるのは正当である、というのである。
これに対して中山寺村は反論する。この地域に三村の立会山があり、三村が別々に松を植えることになっている点は、米谷村のいうとおりであるが、このたびの論所はこの立会山のなかではない。「古中山寺本山境内」に属する中山寺村支配の山であると主張する。
奉行所では結局立会絵図を申付け、それができあがったのちも、争論中は論所へ立ち入らぬよう命じた。ところが米谷村からそこへ立ち入るものがでて、同村の庄屋が籠舎仰せつけられている。
この争論中、たまたま延宝六年正月二十八日に巡見使が通過した。そこで両村は絵図をみせてそれぞれ主張を述べ、あらかた巡見使に聞いてもらった。しかし巡見使は京都奉行所へ訴えて解決するようにとこたえたにとどまった。それと同じ正月下旬に高槻藩永井氏の担当で中山寺村の延宝検地がおこなわれた。そのさい中山寺村は、同村の文禄検地帳(写し)を取りだし、米谷村が松を植えた論所、すなわち字川之端の中畑一反五歩(永荒地)・字ほうかう田の上田九畝一〇歩(うち四畝一五歩は荒地)および除地となっている除業障山(じょごしょうがやま)一畝の三ヵ所は、いずれも中山寺村の文禄検地帳にあり、まぎれもなく同村領であると主張した。
検地がおこなわれた翌年延宝七年六月二十七日奉行新城喜太夫・柘植吉左衛門が中山寺・米谷村の論所見分にやってきて、立会絵図と照合した。とくに除業障山も含まれている古中山寺境内について四至傍示が打ってある場所の地字名を調べて帰った。そして七月九日京都町奉行前田安芸守直勝の前へ双方が呼びだされてさらに吟味がなされた。そのとき中山寺村は古中山寺境内一八町四方の絵図や代々の証文の写しをみせたので、とりあえず古中山寺境内は従来どおり除地とすることが認められた。中山観音は順礼札所であるのに寺領の田畑もないので、この古中山寺境内の山を除地とするというものであった。しかし論所については裁許をまつよう仰せつけられた。
その後七月十八日裁決が下された。古中山寺境内一八町四方(うち二町四方は山林、他は柴山)は長尾山に属するが、山役は免除されており、中山寺境内であることが明白である。論所はこの範囲に属し、したがってこの地は米谷・中山寺・中筋の立会山ではないので、今後米谷村から入り込まないように、という内容であった。中山寺村の勝訴となったわけである。
②西谷地区の山論 宝暦七年(一七五七)の上佐曽利村明細帳に、延宝七年(一六七九)上佐曽利村と木津村(猪名川町)との間に山論が起きたことをしるしている。見分のうえ立会絵図をつくったことがわかるだけで、具体的なことは判明しない。
また延宝八年には波豆村と有馬郡香下(かした)村(三田市)との間にも山論が起きた。同年十一月十六日絵師によって立会絵図がつくられ幕府(京都郡代所)に提出された。その絵図には、双方申し分ない旨の裏書がなされているが、これもまた争論そのものの内容はわからない(この絵図はのち宝永年間の波豆村と木器村の領境争論のときに大いに役立ち、波豆村を勝訴に導くこととなる。三六七ページ参照)。
しかしこれらの争論が延宝検地における山の改めに触発されたものであることは、容易に察することができる。①で述べた古中山寺境内争論も延宝検地とのかかわり合いにおいて裁決が下され、解決しているが、西谷地区で延宝検地に触発されて起きた山論の例として、さらにひとつ、波豆村と有馬郡桑原・山田村との郡境争論をあげることができる。
延宝七年、高槻藩永井氏が有馬郡塩生野(しりちの)村(直領、後の生野村、神戸市)の山を検地するため大岩山付近を改めたさい、麻田藩波豆村が、大岩山より西、羽束川までの部分を自領だと主張した。このことから桑原・山田両村が波豆村を相手取って訴訟を起こした。両村の主張はこうである。羽束川の東、両村でいう東山川向は、大岩山の最高峰を通るほぼ東西の線を境に、それより北側は桑原・山田村領、南側は塩生野村領であり、この地域は桑原・山田・塩生野の三村立会となっているところである。それを波豆村が横領しようとしている、というのである。
天和二年(一六八二)三月十二日京都町奉行所において前田安芸守直勝・井上志摩守重次によって裁決が下された。波豆村と桑原・山田村の境は北からくくり松―なめら谷―大岩山―はぜの谷の線ときまり、したがって東山川向は波豆村領ではないと裁決された。波豆村の言い分は通らなかったわけである。
市域外の例であるが、この延宝期には川西市域の村と能勢郡・豊島郡の村との間に、いくつかの郡境をめぐる争論が起きている。すなわち黒川村と能勢郡稲地村(能勢町)の山論が延宝六年に起こっているし、国崎村と能勢郡田尻・出野(しつの)両村(能勢町)との領境争論が延宝五年から七年にかけて起き、また東多田村と豊島郡古江村(池田市)の間に争論が延宝七年に起きている。いずれも郡境争論であった。ほかに国崎村と能勢郡吉川村(東能勢村)の郡境には、延宝六年の検地にさいして検地役人によって定杭がうたれ、いちおう郡境の決定をみている。
これらの事例を考え合わすとき、近世初頭には、村を単位とする境界が山についてはなお不分明であったが、延宝検地に至って山を登録することになり、そのために境を明確にする必要が生じ、いたるところで同じような境界問題が続発することになったということができよう。波豆村と香下村の争論、波豆村と桑原・山田村の争論も、その例であった。