もっとも延宝期にすべての地域において山境が確定したわけではない。なお検地がおこなわれなかった山があり、領境が決まらないまま問題がもちこされたところもかなりあって、元禄期にふたたび山論が多発している。
①小松尾山山論(二) 小松尾山の領有をめぐる小林村と生瀬村との争論はすでに寛文十年(一六七〇)に起きているが(三三八ページ)、延宝検地にさいしても小松尾山は検地されなかった。このため小松尾山の帰属の問題はまだ根本的に解決されないままであった。
天和二年(一六八二)十一月生瀬村が小松尾山は自領であり、東大伏・西大伏の地は生瀬・小林の立会山だと主張したことから争論となった。両村とも小松尾山を自村の山だと主張しうる正式の証拠をもたなかったが、十二月立会絵図の作成を命じられ、翌三年十一月十六日裁決が下された。このときの裁許絵図裏書には、生瀬村がだした古証文だけでは小松尾山を生瀬領だと立証できないとして、検使衆の見分の結果と、有馬・武庫郡境の様子等を考えて、いま新たに領境を決めるとしている。その領境というのは西は座頭谷を限り、南は岩谷より赤子谷筋の伊孑志・生瀬の山境までを限り、それより北を生瀬村領と定める。東大伏・西大伏は立会山ではなく小林村領とする。今後は、たがいにこの領域をおかさないようにと達せられた。
小林村は小松尾山についての天和の裁決に納得せず、その後もそこを自領とする考えを捨てきれなかったようで、元禄六年(一六九三)にも紛争が起きている。同年二月赤子谷の小松山で生瀬村のものが柴草かりをしていたところ、小林村から二百四、五十人もくりだして打ち合いとなり、双方に負傷者がでた。
②寺山争論 貞享四年(一六八七)寺畑村と栄根村(以上川西市)の間に寺山をめぐって争論が再発した(図10参照)。この寺山については寛文七年(一六六七)すでに争論のすえ、栄根・寺畑両村の立会山であると裁定されていたが、貞亭四年寺畑村がいぜんとしてこれを自領だと主張し、栄根村のものが柴草を取りに入ったとして訴えたことから争論が再発したのである。
寺畑村は、寺山は旧栄根(えいこん)寺の境内地で除地となっていた由緒から、栄根寺が退転した後は門前村である寺畑村が自領としてこれを引きついでいるのだと主張した。これに対して栄根村は、この寺山は長尾山の口山の一部、栄根・寺畑立会山であると主張したが、いったん寛文七年の裁定がでているにもかかわらず、貞享四年には結局どちらとも決着をつけずに終わる形となった。
そのため元禄九年(一六九六)ふたたび寺畑村から同じ訴訟が起こされる。このとき山親切畑村がこの争論に加わることとなった。切畑村は、この寺山は長尾山の口山であると主張した。さらにこの争論にはほかに小戸村・満願寺村もからんで長い紛争となるが、詳細は省略する。結局は同十二年裁決が下った。寺畑村の主張は証拠がなく不分明である。今後は大豆坂街道を見通し、東は寺畑村領、西は長尾山のうちときめる旨の裁許が下され、寺山は長尾山の口山のうちと裁定された。
③波豆・木器村境争論 宝永元年(一七〇四)八月波豆村が和田新田池付近の新開願いをだして開発にとりかかったところ、木器村(三田市)がそこは自村内の土地であるとして、開発差止め願いをだしてきた。そのため両村の間に七年余にわたって争論がつづいた。
波豆村は赤土ガ尾より北は木器村がすでに開発している木器村領和田新田であるが、今回波豆村が開発にかかったところはその南で、波豆村領内にまちがいない。和田新田を木器村が開発するさい和田新田池を波豆村領内に掘り、用水を確保することになった。波豆村では他村の新田のために池を自領内に掘られるのは迷惑である旨役人に願いでた。役人は、池は他領に掘ることもあり、これは領地とは関係のないことだといわれた。新田がふえることは領主のためにもなることなので、波豆村領内ではあるが、和田新田池を掘ることを認めてしまった、と主張した。
これに対する木器村の主張はこうである。村内に和田新田を開発するさい和田新田池を掘った。これはもう少し下、すなわち西の羽束川寄りに掘ってもよかったのだが、上流の谷筋に向かって開発を進めるときのことを考えて上流に掘った。今回波豆村が開発しようとしているところは、かつて木器村が開発しようとしていたところである。だから赤土ガ尾より北だけでなく、南の方和田新田池も含んで木器村領である。また和田新田の用水としての和田新田池がある以上は、そこも木器村の領分であることにまちがいない、という木器村の主張であった。
裁許にあたった奉行は、以上の主張だけでは双方とも確たる証拠があるとはいえないとしたが、この争論に決着をつけたのは、さきに延宝期の山論の②で述べた延宝八年の波豆村と香下村との山論裁許絵図であった。京都郡代所に納められたこの絵図には、波豆村が主張しているとおり村境がえがかれている。その説明を求められて窮した木器村は、当時は木器村と波豆村とは仲がよかったので、絵図の作成、自村との領境については波豆村の望みどおりにまかせていたと説明した。しかし結局宝永七年二月二十三日、この延宝八年の裁許絵図によって波豆村の主張に理があると認められ、その主張どおりに境界線を引き裁許絵図が交付された。そして双方この絵図のとおり境界を守るべきことが申しわたされて落着した。
なお以上の山境争論のほかに、宝暦七年の上佐曽利村明細帳によれば、元禄十二年(一六九九)に上佐曽利村と笹尾村(猪名川町)との間に山論があったことが知られるが、「双方得心ニて相済申候、絵図壱枚御座候」とあるだけで、詳細は明らかでない。