市域直領の代官たち

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 つぎに山あいの村に多い幕府直領の支配の状況をみることとする。直領についてはすでに前章において近世前期の状況を述べた。すなわち大阪の陣の直後には市域のほとんどの村が直領となったが、その後まもなく大阪城代領・大阪定番領その他の私領が配置されたため、寛文(一六六一~七二)のころには、北部の西谷地区だけが直領として残り、南部の村々は私領地帯となって、市域の南部と北部がいちじるしい対照をなす形で所領配置が定着したことを明らかにした(二九五ページ参照)。山間部に直領を残し、平野部を私領として大名に与えるのは変則ともみえようが、川辺郡北部が多田銀銅山の地域である特殊事情からそうなったもので、こうして直領は北部地区を中心に存在することになった。本節では、さらに、この直領を対象におこなわれた延宝検地について述べておいた。
 

表51 西谷地区直領村々の代官

年次代官名
慶長5~6ごろ(1600~01)矢島久助
  8~元和2(1603~15)片桐且元
元和2   (1616)長谷川忠兵衛藤継
寛永3   (1626)山下喜兵衛
  5~天和1(1628~81)中村杢右衛門之重
天和1~今村七郎兵衛好親
  3~元禄3(1683~90)万年伝兵衛頼旨
元禄3.4~6設楽喜兵衛正秀
  7~15長谷川六兵衛安定
  16~正徳2(1703~12)古川武兵衛氏成
正徳3~4町野惣右衛門某
  4~享保5(1714~20)鈴木九大夫正当
享保5~20平岡彦兵衛良久
元文1~   (1736)千種清右衛門直豊
疋田庄九郎泰永
  2~元文3布施弥市郎胤条
  4千種直豊・疋田泰永
  5~寛保2(1740~42)池田喜八郎季隆
寛保2~寛延2(1742~49)奥谷半四郎直救
寛延2~宝暦6(1749~56)小川新右衛門盈長
宝暦6~11.4萩原藤七郎友明
  11~明和5(1754~68)飯塚伊兵衛英長
明和5.6~安永6(1768~77)辻六郎左衛門富守
安永7~天明3(1778~83)万年七郎右衛門頼行
天明4~寛政6(1684~94)石原清左衛門正範
寛政6~文政4(1794~1821)石原庄三郎正通
文政4~天保10(1821~39)石原清左衛門
天保11~14高槻藩永井氏預り
  14~15築山茂左衛門
  15~明治3(1844~70)高槻藩永井氏預り

〔注〕下佐曽利・長谷・玉瀬・切畑・南畑の場合である。上佐曽利・大原野・波豆・境野も直領のときは上の村々と同じ代官所の支配をうけた


 
 ただ、これまでのところ、私領については市域を支配した大名・旗本たちひとりひとりについて簡単ではあるが説明を試みたが、直領については単に直領と表現するだけで、それがだれによって支配されたのか、代官の名まえすらほとんどあげることはしなかった。わずかに大阪の陣直後の段階と延宝検地の段階について、表21・表47において代官名をかかげたにとどまった。もちろん代官それぞれの個性によって政治が大きく変わるというわけではないので、代官ひとりひとりについて説明するつもりはないが、ここでまず市域の直領を支配した代官たちを表示しておこう。
 江戸時代を通じてほとんど直領であった北部地区について、代官の変遷をしめしたものが表51である。
 

表52 良元地区直領村々の代官

年次代官名
 元和2  (1616)伊・川 建部与十郎
蔵 長谷川忠兵衛藤継
*寛文8~10(1668~70)設楽源右衛門
*延宝6  (1678)中村杢右衛門之重
 貞享3  (1686)豊島権之丞勝正
 正徳1~享保3(1711~18)小堀仁右衛門克敬
 享保4.7~6玉虫左兵衛茂喜
   7~元文5(1722~40)上林又兵衛政武
 寛保1   (1741)小堀左源太正誠
   1~寛保2(1741~42)小堀十左衛門政良
   3~寛延3(1743~50)渡部民部博
 宝暦3~宝暦5(1753~55)萩原藤七郎友明
   13~明和1(1763~64)小堀数馬邦直
 明和2~6  (1765~69)辻六郎左衛門富守
 安永2~安永6(1773~77)稲垣藤左衛門豊章
 天明2~天明3(1782~83)小堀数馬邦直
     ~7青木楠五郎紀明
 寛政1~寛政4(1789~92)竹垣三右衛門直温
     ~10岩佐郷蔵茂高
   11~文化9(1799~1812)木村周蔵光明
 文イヒ10~12(1813~15)塩谷大四郎
 文政1~4 (1818~21)島田帯刀
** 6~11 (1823~28)小堀主税
   7~11 (1824~28)辻六郎左衛門

〔注〕伊孑志・蔵人の場合である。川面も直領のときは上の村々と同じ代官所の支配をうけた。
*印は小林が、**印は小林・鹿塩が直領であったときの代官を示す。
代官名の欄の伊・川・蔵はそれそれ伊孑志・川面・蔵人村を示す


 
 一方、南部についてみると、近世初期から延宝検地当時にかけて直領であった安場・小浜・安倉のうち・中山寺村はその後まもなく私領となっているし、他の村々も直領であった期間は一般に短い。わずかに、旗本板倉氏(重大系)が絶家したため直領にもどった山本村や、尼崎藩で宝永八年(一七一一)青山氏四万八〇〇〇石から松平氏四万石に交替したさい、削減所領のなかに入って直領にもどった伊孑志・蔵人・見佐村が、近世中期から後期にかけて比較的長期にわたって直領であった例である。他は川面村のように宝永八年~延享四年(一七一一~四七)の間だけとか、小林・鹿塩・安場・安倉(一部)のように、わずか文政六年~一〇年(一八二三~二七)の間だけ、つまり忍藩阿部氏領から一橋徳川氏領に移るまでの間だけ直領であった村もあり、南部地区では直領の期間は一般にごく短期であった。
 そこで南部地区については、比較的直領の期開か長かった村について代官名をかかげてみた。伊孑志・蔵人村の代官は表52のとおりであり、山本村の変遷は表53のとおりである。
 

表53 直領時の山本村支配代官

年次代官名
元和3   (1617)建部三十郎政長
寛延1   (1748)奥谷半四郎直救
宝暦9   (1759)萩原藤七郎友明
安永6~7  (1777~78)石原清左衛門正範
  8~天明4(1779~84)小堀数馬邦直
天明5~7大屋四郎兵衛
寛政1~4  (1789~92)竹垣三右衛門直温
  9~10岩佐郷蔵茂高
  11~文化9(1799~1812)木村周蔵光明
文化10~12塩谷大四郎惟寅
文政1~4   (1818~21)島田帯刀
  7~10辻六郎左衛門