では、これら直領の村々に対して代官たちはどのような支配をおこなったであろうか。問題の中心はやはり年貢の徴収である。その様子を知るには、村々に対してだされた年貢免状(年貢徴収令状)なり、年貢皆済目録が役立つが、市域には近世初期の古い免状・皆済目録はみいだせない。免状では寛文八年(一六六八)の小林村のそれが、そして皆済目録にいたってはようやく元禄元年(一六八八)の上佐曽利村のそれが最も古いものである。したがってそれ以前の時期の市域の様子については、近隣地域村々の例によって類推するしか方法がない。
大阪の陣(一六一四・一五)の直後から元和九年のころまで川辺・武庫郡の直領を支配した代官建部与十郎が、支配村のひとつ川辺郡久代村(川西市)にだした元和四年(一六一八)から同九年までの免状が残っている。それをみると、たとえば元和四年には、久代村の村高五二八石六斗七升九合に対して三〇七石三斗八升二合の年貢が課されているが、そのうちの七五石は大豆で納めるよう指示している。そして現にこの年の年貢皆済目録をみると、そのとおり七五石が大豆で納められている。年貢の二四・四%にものぼる額である。久代村では大豆納はこの元和四年だけでなく、建部が代官支配した期間中、つまり元和九年までつづいている。建部が代官として支配した川辺・武庫郡の直領村々のなかには、市域の伊孑志・川面・安場・米谷(一部)・中山寺も含まれているから(表24)、これら市域の村々においても元和年間に、久代村と同様に大豆納がおこなわれたことが類推される。
つぎに直領の例ではないが、元和二年以来鹿塩村を支配した旗本喜多見五郎左衛門勝忠の知行地である和泉国舳松(へのまつ)村(堺市)の元和七年の年貢皆済目録が残っている。それをみると、一五一三石一斗二升のうち一七二石(一一・四%)が大豆納されている。この事例は喜多見氏の知行した泉州廻り三ヵ村(中筋・舳松・北庄)だけでなく、鹿塩村でも大豆納がおこなわれたことを推察させる。
いうまでもなく江戸時代は石高制の時代であり、年貢は田畑・屋敷を問わず米納するのが原則であった。しかし米をつくらない畑や屋敷地の年貢までも米で納めることには、やはり無理があって、畑の年貢のことを考慮して、大豆納がなされたものと思われる。
しかし商品経済・貨幣経済の発展とともに、畑の年貢は銀納制に移行する。大豆納はまもなく十分一大豆銀納にかわり、さらに五分一銀納制もはじまり、それはさらに三分一銀納制へと移行して定着する。この銀納制への移行過程についてふれた当時の史料はなく、わずかに『地方凡例録(じかたはんれいろく)』(寛政六年刊・一七九四)につぎの記述があるにすぎない。「三分一銀納ノ初リ時世不二相知一ト雖(いえども)、民間金銀通用ハ慶長・元和頃ヨリノ事成(なれ)バ、三分一銀納・十分一大豆銀納抔(など)卜極リタルハ其以後ノコトト見エタリ」。慶長・元和(一五九六~一六二三)ごろから貨幣経済が一般に展開したので、銀納制はそれよりあとにはじまったのであろうと、ばく然と述べているのである。
そこで村々に残る具体的な史料によって、移行のあとをたどる必要がある。まず大豆納からさきにいえば、川辺郡の直領では、寛永期まで大豆納がつづき、正保ごろ十分一大豆銀納への移行がみられる。すなわち、元和年間の久代村の例につづいて寛永元年(一六二四)の小戸庄村、同三年の栄根村持ち寺畑の場合に、年貢の一部を大豆納していたことが知られる。さらに寛永三年大阪城代阿部正次の所領となったので、もはや直領の例ではないが、久代村では寛永十五年にも大豆納がつづけられている。ところが正保四年(一六四七)の寺畑村(以上川西市)にいたって十分一大豆銀納がみられるので、川辺郡の直領では寛永・正保(一六二四~四七)ごろ大豆銀納がはじまったと推察される。