つぎに五分一銀納のはじまり、三分一銀納制への移行についてみると、喜多見五郎左衛門勝忠の知行地である和泉国舳松村の例では、さきにあげた元和七年の年貢皆済目録に、一五一三石一斗二升の年貢のうち、五分一に当る三〇二石六斗二升が「銀ニて納」められたことがしるされている。大豆納とならんですでに五分一銀納制がはじまっていることが知られるのである。近隣の例でいえば、寛永十四年に一庫村(川西市)で五分一銀納がみられる。この年の免状に「拾石五斗大豆、弐拾石三斗五ヶ一、丑年(寛永十四年)」とはり紙が付けられており、五分一銀納制・大豆納制がつづいていたことが知られる。
しかしこの五分一銀納制がおこなわれたのはどこともきわめてわずかな期間で、舳松村の場合では寛永五年に早くも三分一銀納制に変わっている。三分一銀納制への移行をしめす近隣の例としては、栄根村持ち寺畑で寛永十五年におこなわれているのが初例である。畿内では田畑の割合は大体田方三分の二、畑方三分の一であったといわれるから、おのずと畑の年貢を念頭において三分一銀納制に落ちついたのであろう。
三分一銀納・十分一大豆銀納は、村によって多少の例外もあり、移行の年次も一律ではないが、ほぼ一七世紀のなかごろには定着し、以後直領における年貢徴収の典型的形態として、江戸時代を通じて実施されることになる。いな、これは直領だけでなく、喜多見氏のような旗本(喜多見氏はのち大名)領においても、また大阪城代領・大阪定番領などでも準用されたのであり、宝塚市域では尼崎藩領・篠山藩領などを除いて、おおかたの村でこの直領の方式による年貢徴収がおこなわれることとなる。
三分一銀納と十分一大豆銀納を合計すると、ほぼ年貢総額の一〇分の四強が銀納されることとなるので、これは一般に四分方銀納といわれ、六分方米納と対照させて称される用語となった。