すでに述べたように市域にはそれほど古い免状や年貢皆済目録は残っていないが、ここで直領・私領の別を問わず、一七世紀の免状によって徴租の形態をかいまみることにする。
市域に残るいちばん古い直領の免状は寛文八年(一六六八)の小林村のものである。それは設楽(しだら)源右衛門能政がだしたものであるが(写真154)、それをみると、村高五三四石一斗六升に対して三二六石一斗六合の年貢が割り付けられ、うち一〇八石四斗九升六合を「三分一銀納」し、三二石六斗一升を「拾分一大豆納」して、残る一八五石を米納するよう指示している。すでにみたように大豆納が大豆銀納に移行するのは一般的には寛永・正保ごろのことであるが、小林村では寛文八年だけでなく同十年の免状をみても十分一大豆納としるされていて、かなり遅くまで大豆納がおこなわれていたことが知られる。
それにつぐ古い免状は、代官中村杢右衛門之重がだした上佐曽利村延宝四年(一六七六)の免状である。しかしそればかりでなく延宝八年の免状でも年貢納入方法についていっさいしるされていない。もちろんそれはかならずしも米ばかりで納められたことを意味するものではない。年貢皆済目録があればその状況を知ることができるが、上佐曽利村だけでなく直領村々の古い皆済目録が残っていないため、納入方法のじっさいを知ることができない。しかし延宝期にはおそらく十分一大豆納か大豆銀納、三分一銀納が採用されていたことであろう。なお上佐曽利村の皆済目録の最も古いものは元禄元年(一六八八)のものである。それには十分一大豆銀納・三分一銀納、残り米納の方法で上納されたことがしるされている。
寛文・延宝の免状につづく直領の免状としては、代官古川武兵衛氏成が宝永元年(一七〇四)上佐曽利村と境野村にだした免状である。それには十分一大豆銀納・三分一銀納・米納の三つの区分で上納するよう指示されている。
以上あげた程度の史料だけでは市域直領の模様を概観することすらできないが、十分一大豆銀納・三分一銀納制が、一七世紀後半には展開していたことは察することができよう。
つぎに私領についてみると、寛文八年の直領小林村の免状よりさらに古い免状が残っている。上総国飯野藩保科氏の所領米谷村(小部)にだされた寛文元年の免状である。これをみると同年村高二〇〇石に対して一〇四石の年貢を上納するのに、うち一〇石五斗は「大豆」、三一石は「三分一」、六二石五斗は「御蔵入」と指示している。「三分一」が三分一銀納を意味することはいうまでもないが、「大豆」とあるのが大豆納なのか大豆銀納なのかは明らかでない。しかしともかく直領と同じ徴租法を採用していることがわかる。つぎに板倉重大(しげもと)の知行所であった山本村延宝五年(一六七七)の免状がある。しかしこれには銀納・米納の内訳はしるされていない。
内訳をしるしたものとしては、さらに忍藩阿部氏の例がある。同氏はすでにみたように貞享三年(一六八六)と元禄七年(一六九四)の両度にわたって摂津に所領を与えられたが(表35・37参照)、当初の貞享三年の上佐曽利村免状が残っている。また翌四年の安倉村(大部)・枝郷鳥島村にだされた免状や、元禄十三年小林村にだされた免状なども残っている。それにはいずれも十分一大豆銀納・三分一銀納法が採用されており、阿部氏は当初から直領の徴租法に従って畿内にある飛び地からの年貢徴収をおこなっていたことがわかる。