さて五分一銀納・三分一銀納あるいは十分一大豆銀納は、米で納める代わりに銀で納めるのであるから、米の換算値段が問題である。単に時価に換算した代銀でもって納めるのであれば、農民にとってあまり問題でない。しかしこの銀納に用いられる石代(こくだい)値段は当初から時の米価を上回るものであったようである。
すなわちその年の京・大阪・大津の米・大豆それぞれの平均相場に増し銀をつけて畿内五ヵ国の直領の石代値段を決定し、近江・丹波・播磨・備中などでは、畿内の石代値段の二匁下げで決定している。たとえば延宝三年(一六七五)の畿内の石代値段は、平均相場に石につき一五匁九分もの増し銀をつけて、一石七六匁と定められている。
このような増し銀をつけたのは、表向きは、石代値段を定める時期は新穀の穫(と)れたころで米価が比較的低い時期であるため、それを石代値段と定めると幕府にとって不利となること、石代納すれば米納のための諸労力をはぶくことができる点などを理由としているが、理由はともあれ、それは単なる代銀納ではなく、当時の米価よりかなり高い額で銀納させるものであり、年貢増徴につながったことはまちがいない。
なお私領でも、さきにあげた飯野藩保科氏・忍藩阿部氏のように、幕府の十分一大豆銀納制・三分一銀納制をそのまま採用するものが多かった。しかもそれは、単に形式をならうだけでなく、幕府の定めた石代値段をそのまま自領の徴租のさいの石代値段としたものが多い。ゆえに、年貢増徴につながる石代値段は直領のみならず私領においても問題をはらむものとなっていくのである。