直領における一七世紀の徴租形態を、ここでは主として本年貢について述べてきたが、徴租に関してはさらに山手米銀・小物成銀の問題がある。しかしこのことについては、その徴収のうえで延宝検地がひとつの画期をなしたので、すでに延宝検地のところで述べるところがあった。すなわち延宝検地を契機として山手米・山手銀の倍増がはかられたこと、入木代・茶柿代・山椒代・鍛冶炭代など小物成の銀納額が延宝検地帳に登録されたことを述べた(三五五ページ)。
ただこれら山手米銀・小物成銀については、延宝検地後の免状にはすぐには記載があらわれない。しかし免状に記載がなくても、延宝検地帳に登録された銀額が別途に徴収されたことはまちがいない。そしてこの山手銀なり小物成銀なりが本年貢とともに免状にしるされるようになるのは、元禄期(一六八八~一七〇三)のことと考えられる。それにはつぎのような事情があったろう。延宝検地によって村高がふえたことに対する農民の抵抗を考慮して、幕府は新検高による年貢の収取を検地直後から始めず、十数年後の元禄初年から始めたことについてはすでに述べたが(三五二ページ)、そのことを想起するとき、延宝検地で定めた山手米銀や小物成銀も、新検高による収取をはじめた時期、つまり元禄期から免状に記載されるようになったと考えるのが自然だからである。古検高から新検高への賦課基準の切り替えが元禄二~四年の間におこなわれた上佐曽利村で、元禄元年の免状になかった山手銀の記載が元禄四年の免状にあらわれていることが、うえの推測を支持するであろう。