なお、ここで直領支配の問題のひとつとして多田銀銅山のこと、銀山付村のことにふれておかねばならない。多田銀銅山の地域が東西・南北とも十数キロメートルにひろがっていたこと、豊臣氏の時代に市域では長谷村・下佐曽利村の千本間歩(まぶ)や切畑村の紺青間歩が多田銀銅山の一角を形成して盛んであったことについてはすでに第三章第二節で述べた(二一二ページ)。
ところでこの多田銀銅山が豊臣時代をさらに上回る最盛期を迎えるのは、明暦~寛文(一六五五~七二)のことである。多田銀銅山では西から銀山親鉉(おやづる)・奇妙山親鉉・七宝山親鉉・高山親鉉といわれる四つの主鉱脈がほぼ南北方向に走っているが、明暦~寛文期には、銀山親鉉では銀山町(猪名川町)の大口間歩・瓢簞間歩、奇妙山親鉉では国崎村(川西市)・民田村(猪名川町)の地区、七宝山親鉉では黒川村(川西市)・吉川村(大阪府東能勢村)の地区が盛山となっている。なかでも大口間歩はこの時期の中心的間歩であった。この間歩は慶安・承応(一六四八~五四)のころ大阪の米屋弥左衛門が出願し稼行(かこう)していたが、同人が関東で犯した旧悪が露見して稼方(かせぎかた)追放となって後、万治二年(一六五九)からは、銀山町の津慶吉兵衛が出願して稼行している。彼が同三年二月からさきに米屋弥左衛門が稼行していた間歩のくずれふさがったところを取り開ける普請をしたところ、大鉉(大鉱脈)を掘りあて多量の銀鉱がでるようになったと伝えられている。この銀山町の間歩を中心に多田銀銅山全体の産出は、最盛期であった寛文期には年に銀一五〇〇貫目、銅七〇万斤(きん)(一斤は六〇〇グラム)を越え、諸運上銀(営業税)は六六〇貫目に達する年もあったといわれる。銀山町は栄え家数は三〇〇〇軒にも達したという。
このように多田銀銅山が盛況におもむいたので、幕府は寛文元年(一六六一)十月京都代官中村杢右衛門之重を銀山町に赴任させ、そこに陣屋を建てて多田銀銅山を管轄させることにした。そして翌二年二月十五日には、間歩のある村々を中心とする七三ヵ村を銀山付村とし、中村代官にこれらの村々をも合わせ支配させることにしている(二九四ページ参照)。もっとも中村はこれよりさき寛永五年(一六二八)から京都代官としてすでに銀山および付近の直領村々を支配していたのであるが、京都から銀山町に赴任して直接この地で支配する代官となったものである。中村代官の銀山町赴任は多田銀銅山が盛山を迎え幕府にとって重要な意味をもつようになったことをしめしている。