さて寛文二年に川辺・能勢・豊島三郡七三ヵ村が銀山付村に指定されたとき、それに所属した市域の村は波豆村を除いた西谷地区村々であった。
市域は多田銀銅山の中心をなす地域ではなかったが、やはりこの時期に、豊臣時代と同様、盛山を迎えた間歩がある。長谷・下佐曽利両村にまたがる千本間歩と切畑の紺青間歩であり、ほかに境野村にも新たに間歩がでたようである。ことに千本間歩は銀山親鉉から分かれた枝鉉ではあるが、かなり繁栄したようである。このことはつぎのことから推測されよう。寛文元年十月中村代官が銀山町に赴任した当時、銀山町の大口間歩も瓢簞間歩もともに請山であった。採掘経営を山師にまかせ山師から運上として出銅の一〇分の一を上納する方式で稼行されていた。つまり運上山であったが、この両間歩は年内に早くも御直山となったようである。御直山とは、自分山・請山に対する幕府直営の公儀山を意味する。この経営方法はかならずしも一定していないが、経営主としての山師の存在を認めたまま、直営山に近い意味で採掘のための諸資材を公給し、山師にも俸米を与え、間歩の水抜き普請なども公費でおこなうものであった。千本間歩はこの大口間歩・瓢簞間歩とともに御直山になったといわれる。他の諸間歩が請山であったのに対し、とくに御直山に指定されたことに、千本間歩が重要な間歩であったことがしめされていよう。
つぎに「多田銀銅山来歴申伝(もうしつたえ)略記」のしるすところから、市域の間歩の記事を拾ってみよう。第三章第二節で述べた千本銀山と紺青山についてはくわしい記事があるが、ここでは省略し、一七世紀の記事のみを収載する。この文書の編著年代は幕末期であるので、かならずしも正確に史実を伝えているとはいえまいが、市域の間歩についてつぎのようにしるしている。
長谷村領山内 凡十二ヶ所
是ハ足利家ノ御時発起、其後天正度・寛文度銀銅石多分出産有之候由申伝候
芝辻新田領山内 凡三ヶ間歩
是ハ元禄之頃発起、新間歩之由申伝フ
下佐曽利村領山内 凡七ヶ間歩
是ハ足利家ノ御時発起、寛文度ニモ銀・銅出産之由申伝フ
上佐曽利村領山内 凡五ヶ間歩
是ハ寛文・元禄之度銀・銅出産之由申伝フ
大原野村領山内 凡三ヶ間歩
是ハ右同断申伝フ
南北切畑村領山内 凡三十八ヶ間歩
是ハ往昔起発之次第不相知、中ニモ紺青間歩卜申者は天正度豊臣公絵所狩野山楽へ被下候開歩之由申伝へ、右天正ヨリ寛文・元禄ノ頃新間歩モ出来候由等申伝候
玉瀬村領山内 凡五ヶ間歩
境野村領山内 凡弐ヶ間歩
是ハ南北畑村領山内之枝鉉ニテ、寛文・元禄ノ頃新間歩出来候得共、鉉筋細ク出鉑少ク候、而シテ盛山と申程ノ事ハ無之由申伝候
この書に長谷村の千本間歩については豊臣氏の時代のことしか記載されていないのは理解に苦しむが、そのほか上佐曽利・下佐曽利・大原野・境野・切畑などの村々の間歩のようすの大体を知ることができる。さらに切畑村が延宝検地に小物成として鍛冶炭代を納めることになったことは、銀山町・山下町にある吹屋で製錬に必要な木炭の生産が切畑村でおこなわれていたことをしめすものであろうか。
こうして寛文期には多田銀銅山は前後に比をみない最盛期を迎えたが、その盛期は長くはつづかなかった。延宝・天和期(一六七三~八三)には早くも大きく産額が減じ、貞享・元禄期(一六八四~一七〇三)にややもち直すものの、ついに寛文期の盛山をとりもどすことはできなかった。幕府が天和元年(一六八一)代官中村杢右衛門之重を銀山町から引きあげさせ、京都代官に銀山の支配をゆだねる形にもどしたことは、多田銀山が早くも衰退したことをしめした。