京伏見街道といわれた小浜を通る道筋は、慶長(一五九六~一六四)以前からの主要な幹線道路であり、その道筋は慶長年間には、生瀬―舟坂―金仙寺を経て淡河・三木方向へと通じていたこと、また小浜やその付近において、慶長・元和のころに逐次宿駅指定がなされたことなどについては、すでに前章において述べた(二五二・三二七ページ)。ところでその後の小浜の宿駅やそこを通る街道の繁栄のあとをたどろうとするとき、とくに丹波や摂津有馬郡など、奥筋の村々からでてくる荷物や旅人の継立てが問題になる。そこであらためて一七世紀における小浜を通る道筋について、盛衰・変遷のあとをみておきたい。
慶長十年の国絵図に太い線でえがかれた幹線道路は、右に述べたとおり、小浜から生瀬―舟坂―金仙寺を通っていたが、さらにこの絵図に細い線で描かれているつぎの道筋のあることが注目される。武庫川の支流惣合川(惣川)が武庫川に注ぎ入る地点付近で幹線道路から分かれ、武庫川の左岸に沿って浄橋寺山の中腹を、名塩村の枝郷木元(このもと)村の対岸に至る道筋である。この惣合川付近から木元の対岸までの道を人々は青野道とよんでいた。この道は武庫川を渡って木元から名塩を経て山口に通じている。仮にこれを名塩・青野道というなら、この道は一里塚もない小道ではあるが、交通上かなりの意義をもつ道であった。というのは、金仙寺へ通じる幹線道路は、生瀬から舟坂に至る間は太多田(おたた)川の川の瀬づたいの道であった。そのため往々にして雨のために交通が途絶した。そんなときに、その代わりの道として名塩・青野道が役立った。そしてやがてこの道が金仙寺道にとって代わって重要な道筋となっていくのである。
慶長以後まもなく、金仙寺道の重要性が薄れたことはつぎの事実によっても知ることができる。慶安三年(一六五〇)の絵図をはじめ、それ以後の史料には、生瀬から太多田川に沿うて西走する道は金仙寺へ折れずに、舟坂からまっすぐ有馬に至る道としてえがかれ、しかもこれを「有馬道」としるしている。やがて、江戸時代にふさわしい街道・宿駅の再指定がなされるにあたっても、この有馬への道が街道と定められ、金仙寺への道は街道指定からはずされているのである。これらのことから、金仙寺道は寛永(一六二四~四三)ごろにはすでに道としての重要性を失っていたことが知られる。
そしてそれに代わって名塩を通る道筋が重要性を増し、名塩・青野道がやがて街道・宿駅の再指定にあたって街道と定められている。江戸時代初期までは、大量の、しかも遠距離の物資の移動はあまりみられなかった。このような時期には、輸送よりはむしろ交通に道路の使命があったと考えられ、金仙寺道はそのような交通のための街道であったのであろう。だから道路の使命が交通のみならず、物資輸送にもおかれるようになったとき、そして交通路としての淡河・三木・姫路方面との関係よりは、物資の積出しが多い丹波や有馬郡三田方面との関係が深まるにつれて、丹波・三田への近道である名塩道がようやく金仙寺道にとって代わることになったものと思われる。