ここで名塩を通る道の変遷をたどってみると、寛永九年(一六三二)の山論絵図には、慶長十年の国絵図同様、青野道から「木元舟渡(ふなわたし)」を通って名塩への道がえがかれており、生瀬から武庫川右岸を木元に至る道はえがかれていない。ところが寛永十八年(一六四一)に武庫川の洪水があって、青野道が川欠けとなった。そこでそれに代わる道として武庫川右岸に新道がつくられたのである。この道は木元から猿甲部(さるこうべ)とよばれる岩山に突きあたる所まで武庫川右岸を南下し、そこからいったん武庫川原に降り、さらに川の瀬づたいに南下して、太多田川が武庫川に注ぐ地点付近で有馬道に連絡する道である。いまこれを仮に二瀬川道といっておく。慶安三年(一六五〇)の山論絵図には、青野道のほかにこの二瀬川道がえがかれている(写真159参照)。
ところがこの道も途中わずかながら川の瀬づたいの箇所があり、そこが承応元年(一六五二)大水で淵となった。そのため二瀬川道を人馬が通行することは不可能となった。そこでやむなくけわしい猿甲部の岩山を開いて道をつけ替えている。この道は高い岩山道なので牛馬の通行はいたって困難であった。だから平坦な青野道が修復されると、岩山道のこの猿甲部道は敬遠され、この道の人馬の通行が少なくなるのはとうぜんであった。が、ともかく、寛永以後名塩道は木元でふたつに分かれ、武庫川右岸を生瀬へ下る道(二瀬川道・猿甲部道)と、左岸の青野道を通って、生瀬は通らずに幹線道路につながる道と、ふたつの道が生まれた。天和三年(一六八三)の山論絵図でも太い線でえがかれた有馬道のほかに、木元を通るこのふたつの道が細い線でえがかれている。