西宮荷物差押え一件再論

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 一七世紀における奥筋村々から小浜へ通じる道筋について述べてきたが、このことと関連する問題として、前章の終わりのところでふれた慶安四年(一六五一)に生瀬―西宮継立て荷物を小浜が差止めた事件を、ここでふたたび顧みておく必要がある。さきには、単に、荷物を差し押えた小浜の側の負けに終わったことを述べるにとどまったが、右に述べた道筋のことと関連させて考えるとき、小浜がこのような行動にでたことにもじゅうぶんな言い分のあったことを認めることができる。
 当時の小浜の言い分は史料に残されていないが、おそらくつぎのようなものであったろう。三田あたりから西宮へとでてくる荷物や逆に西宮から奥へ送られる荷物は、かならず生瀬―西宮道を継ぎ立てなければならない、ということはない。小浜―西宮道を通って継ぎ立てていっこう差しつかえないはずである。というのは、金仙寺道が衰え、荷物が金仙寺―舟坂―生瀬へとでる道筋に代わって名塩―青野道を通ることが多くなったのだから、奥筋と西宮との間を運ぶ荷物は生瀬継ぎにしないで、青野道から小浜へと断がれ、そこからさらに伊孑志―西宮へと継ぎ立ててもいっこう差しつかえない、ということである。それをさせない西宮の方こそ不当である。また青野道が川欠けになって二瀬川道が開かれると、名塩道を通る荷物が木元から生瀬へと送られることはやむをえないとしても、だからといって、法によって荷物はかならず名塩―二瀬川筋―生瀬―西宮と運ばれなければならないと定められているわけではない。要するに名塩道を通ってでてくる西宮荷物は、生瀬が継ぎ立てようが、小浜が継ぎ立てようが、どちらでもかまわないはずである。
 こう小浜は主張して、青野道から小浜継ぎで西宮荷物を継ぎ立てたかったのであろう。そのために生瀬―西宮道へでて西宮荷物を差し止める行動にでたのであろう。
 このように考えるならば、当時の状況下にあっては、小浜の言い分はそれなりに筋の通ったことであり、その行動にも一分の理があったと考えられるのである。