米谷村の茶屋・馬宿

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 さて街道筋の整備は物資輸送量の増加と深く関連して進行した。寛永~慶安(一六二四~五一)のころともなると、「有馬・丹州参候方々諸商人之荷物并丹州篠山御領・三田九鬼大和守様御領より大坂のぼり御米毎年大分出申」すようになった。寛永十八年青野道が川欠けになったとき、ただちにそれに代わる二瀬川道がつくられ、さらに承応元年この道が通行不能となるや猿甲部道の開削が試みられたのも、名塩道を通る荷物が増加していたからであろう。また慶安四年に生瀬―西宮道を通る荷物を小浜のものが差し止める事件が起きたのも、この地域の物資輸送が増加したからのことによる。
 このような流れのなかで、西宮道だけでなく小浜を通る京伏見街道でも荷物の輸送、旅人の通行をめぐる問題が起きてくる。天和四年(一六八四・貞享元年)小浜駅のものが、米谷村を訴えた事件もその例である。その事件について述べるまえに、少し米谷村の一七世紀の状況をみてみよう。
 

写真160 米谷の旧街道筋


 
 天和四年の史料によると、七〇年前つまり元和初年のころすでに西米谷に茶屋があり、いつのころからかそこを六軒茶屋というようになったと推定され、また延宝六年(一六七八)当時、六軒茶屋の西はずれに二軒の水茶屋があり、その後、それがなくなって、こんどは六軒茶屋の東一丁ほどのところに二軒の水茶屋ができたことが知られる。さらに奥筋村々に所領をもつ大名が大阪へ送りだす米その他の荷物が多くなるにつれて、その荷物を預かる馬宿をつとめる家も米谷村にできた。すなわち三田藩九鬼氏をはじめ、寛永三年から慶安元年まで有馬郡にも飛び地をもった大阪城代阿部正次、あるいは慶安二年以来有馬郡に所領をもった安部氏(信真系)ら諸大名が指定した馬宿が米谷村にあったことが知られる。元来米谷村は小浜に近接した村であり、まえにも述べたとおり(三二六ページ)、安倉・伊孑志・川面・鴻池の在馬とともに小浜の宿駅業務をつとめていた村でもあったから、なにかと街道筋の村として荷物の輸送や旅人の通行に関連する業務にかかわるものが多かったようである。そのような米谷村の活動が活発になるにつれて、宿駅業務を専業とする小浜から自己の営業をおかすものと受けとられるようになり、ついに天和四年小浜が米谷村を訴える事件が起こることとなる。
 

図17 近世の小浜町場図