同年正月小浜の庄屋・年寄・馬借が米谷村の庄屋・新茶屋・新問屋を訴える訴状を大阪町奉行所に提出した。この訴状にはつぎのようなことが書かれていた。
1 小浜は地子高七〇石を年々銀納している田畑のない町場で、宿場の御制札を頂戴(ちょうだい)して京・大阪から有馬・丹波への馬継ぎを営み、街道・旅人のおかげでくらしてきた。ところが小浜の町続きにある米谷村で、仁右衛門・弥市右衛門・弥市兵衛・五郎左衛門・弥右衛門の五人が三田そのほか奥筋の荷物を馬に積んで、一駄について銀二分の場銭を取り、問屋を営み荷物の付けおろしをしている。そのほかにも旅人宿を営んでいるものもいる。
2 米谷村の西のはずれに新茶屋五軒が建ち、旅籠(はたご)屋として街道を通る馬やかごをとめている。これでは小浜町は公儀の人馬継立てをつとめる手だてを奪われて衰え、はなはだ迷惑である。ことに新茶屋は米谷村の庄屋衆の借家として建てており、そこで旅人が昼休みをとるので、小浜の町で休むものがいなくなり、小浜の営みが奪われて迷惑している。
3 小浜の東の入口の外に、安倉村から米谷にぬけて街道筋にでる道がある。これは小浜町の御制札場を避けて通る抜け道で、米谷村はこの抜け道を人馬に通らせて自村の問屋・旅籠屋に招き入れている。このようなことのために小浜の公用人馬の勤めに支障が生じては小浜のおちどにもなり迷惑である。
4 小浜町は田畑のないところであり、もっぱら街道でのかせぎで生活し地子銀(町場の租税)を納めている村である。この小浜の営みが米谷村に奪われると、地子銀の上納や公用人馬の継ぎ立てもつとめられなくなるので、米谷村のかような新規の行動をやめるよう申し付けられたい。
小浜はこのような内容の訴状をだして米谷村を訴えた。