米谷村の反論

392 ~ 393 / 602ページ
 この訴えは二月四日奉行所から米谷村に伝えられ、同月十日米谷村はこれに反論する回答を提出している。内容はつぎのようなものであった。
 1 米谷村の仁右衛門以下五名に対する訴えについては、①仁右衛門は前々から米商売を営み奥筋村々と行き来しているので、三田あたりにも懇意のものがいる。したがって彼らが大阪などへ出るときに仁右衛門宅に立ち寄ることもある。仁右衛門が勝手に往来の人を呼び寄せているわけではない。②弥市右衛門も米商売をしており、奥筋に懇意のものがいる。とくに三田の鍛冶屋は年に一、二度鍛冶荷物をだすので弥市右衛門が預かることもある。③弥市兵衛は前々から安部氏の領村から納められる年貢米の御米宿に指定されているので、新規に問屋を営んでいるわけではない。先年大阪城代阿部備中守正次が有馬郡にもっていた領村の年貢米三〇〇〇石の御米宿をつとめたことがあり、その関係で安部氏の御米宿をつとめているのである。④五郎左衛門は農民ではあるが、そのかたわら代々三田藩九鬼氏の荷物の馬宿をつとめている。⑤弥右衛門はいっさいそんなことはしない。ただ兄仁右衛門の懇意のものを一宿させることはあるが、旅宿・問屋まがいのことはしていない。以上五人とも懇意のものを年に一、二度とめているにすぎず、宿賃をとっているわけではない。
 2 小浜は、茶屋五軒を新規に建て旅籠屋を営んでいるといっているが、まったくの偽りである。村の西はずれ西米谷のうちに六軒茶屋というところがあるが、ここは前々からあるもので新規に茶屋をはじめたわけではない。ほかにひとりの髪ゆいと庄屋の譜代下人で、田畑のなかに六、七畳程度の住まいを建てているものがいるが、旅籠など営んでいない。また六軒茶屋の東の方に木陰があり、そこに二軒の出茶屋があるが、これも新茶屋ではない。
 3 小浜が安倉―米谷の抜け道といっている道は、米谷村のものが安倉村のなかにある一〇〇石ばかりの田地に通う古い農道である。それを小浜が近年切りくずしてわずか一尺ばかりの細道にしてしまったので、耕作の農具をもち運ぶこともできず迷惑している。このことについては米谷と安倉が小浜に対して旧にもどすよう申し入れたが、小浜からしばらく待ってくれといってきたので、訴えもしないで今日に至っている。
 米谷村の反論は以上のようなものであった。