そこで大阪町奉行所では三月二十八日検使役人を派遣して調査し、関係者から証言をとり絵図を作成して帰ったが、それにもとづいて四月二十日、つぎのとおり裁許が下された。
1 抜け道については、小浜は三〇年前まではそこに馬止めの栗柱が打ち込んであったがその後中絶しているので、従来どおり馬止めを打ちたいと希望している。米谷・安倉はそんなことをされては農作や柴薪の持ち運びなどに迷惑であり、また洪水のときに安倉のものが池の樋のところに詰めるにもさわりとなると申し立てた。役人が検分したところ、馬止めを打っては、往来の旅人や馬やかごが小浜の東の入口に集まっているときなど、そこを農作や柴薪をつけた牛が通ると、狭い道にひしめくことになって、たがいに道の妨げになる。したがって、たとい古来そこに馬止めがあったとしても、このたびは馬止めを打つことを認めない。
ただし往来の人馬が脇道を抜けないようにするため、伊丹・瀬川・昆陽・生瀬の馬借年寄を呼び寄せて、この四駅の人馬やかごが脇道を通らぬよう、そして小浜の宿を通るようかたく申し付ける。
2 小浜は仁右衛門以下五人が小浜問屋の営業を奪っていると申し立てているが、今後彼らが問屋まがいの行為をしなければ、今までのことは不問に付してよいといっているので、今回はせんさくしない。今後問屋的行為のないよう申し付ける。ただし米谷村のものが大名方の御米宿をつとめることは差しつかえない。親類や懇意のものを泊めたり荷物を預かるのはよいが蔵敷・宿賃を取る行為は許さない。
3 二二年以前に、小浜の東の入口に近い安倉村の野道に安倉のものが茶屋を建てたときそれを取りこわさせた先例がある。しかし米谷の茶屋の方は古くからあり、一里塚の茶屋や四年前に建てた坂ノ下の二軒の茶屋も場所はちがうが六軒茶屋つづきで、新規の茶屋とはいえない。よって現在ある四軒の茶屋に限り存続を認め、今後数を増やすことは認めない。
4 米谷から安倉に通じる脇道は存続を認める。なおその道に馬止めがかつてあった証拠はない。小浜があったようにいうのは公儀に対して偽りを申し立てたことになり不届きであるが、今回は不問に付する。
以上のような裁許が大阪町奉行所から下された。米谷村の四軒の茶屋、米商売や大名の御米宿をつとめるものたちから、その裁許を請ける旨の証文を差し入れて、ことは落着した。