生瀬、青野道の廃道を願う

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 この小浜と米谷の争論が終わって二年後の貞享三年(一六八六)に、小浜が三田・道場河原と結んで生瀬と争った青野道一件ともいうべき争論が起きている。この争論は貞享三年から宝永二年(一七〇五)まで二〇年もつづいた紛争であるが、ことのおこりは生瀬のものが名塩道を通ってでてくる三田・道場河原の荷物を青野道へ通さずに猿甲部道へ通し、生瀬で強制的に継ぎ替えさせようとしたことにある(以下三八五ページ図16参照)。生瀬が荷物を少しでも多く継ぎ立てようとする強い願望をもっていることは、生瀬村が寛永末年青野道の川欠けにさいしてすかさず二瀬川道をつくり、ついで猿甲部道をつくったことにあらわれている。その願望は荷物が増加するにつれていよいよ激しくなり、やがて他駅の利害と大きく対立する結果をもたらした。
 生瀬のいうところでは、貞享三年三田のものが新法を企て生瀬駅をよけて青野道を不法に通ったので、この荷物を差し押えて代官所へ訴えたのだという。おそらく生瀬は寛永末年に二瀬川道、そして承応元年に猿甲部道ができて以来、旅人・牛馬はすべてこの道を通るべきものとし、青野道を通るのを不法だと主張するのであろう。寛永末年の川欠け以来青野道の通行がとだえた時点ではいちおう人馬がすべて生瀬を通る事実があったことは確かだとしても、その主張は多分に生瀬の一方的な主張といわざるをえない。歴史的にみて青野道を通るのが新法だとも不法だともいえないし、たとい西宮へでる荷物であっても生瀬駅をかならず通らねばならぬというきまりがないことは、すでに述べたとおりである。
 この事件がどう解決したか不明であるが、このときは一週間ほどで和解している。ところがその翌年貞享四年になって、生瀬は青野道を廃道にしていただきたいと願いでている。生瀬側の主張をしるした元禄四年(一六九一)の史料によれば、この青野道の廃道願いに対して、領主土岐伊予守頼殷(ときいよのかみよりたか)から、今後三田・道場河原の荷物は生瀬駅で継ぎ、青野道を直接小浜へ通さないという小浜駅の請け証文をとるよう仰せ付けられたという。しかし仰せがあったという生瀬の言い分はどうも元禄四年になってつくりあげたうそらしい。そしてこのような偽りを申し述べたことが同年生瀬から籠舎・手錠のもの八人をだす直接の原因になっているらしい。こう考えると貞享四年の青野道廃道願いは、なんの成果も生瀬にもたらさなかったと思われる。