そこで翌元禄元年(一六八八)生瀬は青野道を廃道にもちこむため道の修理をおこたる一方、難所猿甲部のがけ下に新道を切り開いて荷物をこの新猿甲部道へ導き寄せようとする行動にでた。このため同年十月小浜・三田・道場河原は生瀬を相手取って訴訟を起こしている。その訴状の内容はつぎのようなものであった。
これまで小浜から有馬へ送る荷物は生瀬で継ぎ立てるが、三田・道場河原へ送る荷物は生瀬を通らず、小浜から青野道を継ぎ立ててきた。ところが生瀬村のものは対岸青野道まで出向いて、三田・道場河原からだされる荷物を不法にも差し押えたばかりでなく、破損した青野道を修理しようとせず人馬の通行を困難にしている。たびたび修理を申し入れたが聞きいれず、そのうえ長さ二丁にわたって新猿甲部道をつけ、荷物を生瀬村に引き寄せ、駄賃と武庫川の渡し銭を取ろうとしている。どうか新道の開削を差し止められたいというものであった。
訴えをうけた大阪町奉行所はつぎのように裁決し、生瀬の一方的非分が決した。①荷物はすべて生瀬駅で継ぎ立てるという証拠もないのに、青野道の通過をはばむのは不届きである。②青野道の破損箇所は生瀬・名塩両村が立ち会って修復せよ。③猿甲部のがけ下につくりつつある新猿甲部道は切りくずせ。①新道をつくるのに奉行所に届けなかったのは不届きである。
以上の裁許事項のうち、①は正しい裁決であるが、他はいずれも過去の事情を尊重して下された裁決とはいいがたい。というのは、当時青野道も猿甲部道もまだ正式に街道と指定されていない、いわゆる勝手道である。これを普請するかどうか、また村内に新道をつけるかどうかといったことは、生瀬村とその領主の考えしだいであり、幕府の直接関与すべきところでない。生瀬村は当時大阪城代内藤大和守重頼の所領であったので、幕府が、新道をつくるのに届けなかったのは不届きであるなどという筋合いのものではない。こう考えると、従来勝手道に関してなんら拘束しなかった幕府がこの訴訟を契機として、過去の事情とはかかわりなしに荷物輸送量の多い重要な勝手道である名塩・青野道に統制の手を伸ばしたものということができ、幕府の街道・宿駅の追加指定への動きとして注目される。