以上述べたとおり、貞享三年以来生瀬は青野道を廃道にして荷物を猿甲部道から生瀬駅へと通そうとはかってきたが、元禄元年の裁許でそれはまったく失敗に帰した。そしてかえってこの裁許によって青野道の通行が成文的に認められ、その普請まで命じられてしまった。しかも青野道は平坦であり、猿甲部道の方は高い岩山道である。小浜や三田・道場河原はこれで大手をふって便利な青野道を継ぎ立てることができるようになったわけである。生瀬にとってはこの元禄元年の裁許は完敗であり、致命的であった。
しかし生瀬はそのまま退かなかった。元禄四年に小浜・三田・道場河原を相手取り、三村の共謀で荷物がことごとく青野道を通るようになり、ために生瀬の馬借は継ぐ荷物がなくなったと訴えた。そしてさきに、だされたかどうか疑わしいと述べた貞享四年の土岐伊予守頼殷の仰せつけなるものまで証拠として持ちだし、荷物を猿甲部道から生瀬へ通すことの正当性を主張した。ところがこの虚偽の申し立てが逆にあだとなって、生瀬は籠舎六人・手錠二人の処罰者をだす結果となってしまった。しかし生瀬村はこれに屈せず、さらに馬借絵図をつくり、それに御断書帳を添えてこまごまと自村の主張を述べる手段にでた。その内容はつぎのとおりで、まさに元禄元年の裁許を、箇条を追って反論するものとなっている。
1 有馬道・二瀬川道・猿甲部道・青野道・西宮道とも生瀬馬借の往来自由な道であり、ここを通る荷物はかならず生瀬で継ぎ替えてきた。なかでも問題の青野道は生瀬村領内にある道で、そこを通る荷物も生瀬が継ぎ替えてきた。ただし二瀬川道・猿甲部道ができてからは、旅人・牛馬ともすべて猿甲部道を往来している。
2 道の普請は生瀬村の百姓の自普請でおこない、どなたからも普請の扶持米をもらったことはない。普請の必要が生じたときには百姓が寄り合い、山の高下にもかまわず道になるべきところを見たてて道を作り替えてきたので、その道の作り替えのときにどなたにもお断りしたことはない。したがって元禄元年猿甲部のがけ下に新道を造ったことについて、他からさまたげられるべき筋合いはない。旅人が勝手よいようにと願ってしたことを、相手の三村は街道を生瀬へ引き込んだように偽りの訴えをしているのである。
3 元禄の裁許以来、三村の馬借たちが青野道を通り、生瀬で継ぎ立てるべき荷物は一駄もないありさまとなり迷惑している。
申立ての1は元禄元年の裁許の①の項に対する反論であるが、青野道に関しては生瀬の一方的な主張というほかない。しかし申し立ての2は元禄裁許の②以下の項に対する反論で、裁許が過去の事情を無視しているとする主張としてはいちおううなづけるものである。だが裁許に対するこのような果敢(かかん)な反論にもかかわらず、幕府がいったんだした裁許を撤回させることはついにできなかった。青野道を廃道にして、猿甲部道を人馬に通らせようとする生瀬の計画はふたたび失敗した。