このような情勢のもとでいよいよ名塩・青野道が往還つまり街道と決定される。元禄十一年(一六九八、元禄九年ともいう)道場河原があらたに馬借所(宿駅)に指定された。そして翌年名塩・青野道は街道に決まり、小浜―道場河原間の継立て賃銭をしるした添札が下付されたのである。一方、猿甲部道を通る生瀬―道場河原間の継立ての方は認められず、継立て賃銭の添札もうけることができなかった。小浜の有利性はここに確立した。
もっとも、その後将軍綱吉がだした生類あわれみの令との関連で、牛馬をいたわるために、道のり六里もある道場河原―西宮間は三里ずつに分けて生瀬で継ぎ立ててもよいとの意向がしめされ、元禄十七年猿甲部道を通り道場河原―生瀬―西宮と継ぎ立てる継立て賃銭の添札が生瀬に下付された。また同じ趣旨から、新猿甲部道の開削も命じられている。先に元禄元年には、猿甲部岩のがけ下に生瀬が作ろうとして途中で切りくずしを命じられた新猿甲部道を、こんどは牛馬が通行しやすいように、と開削を命じられた。
この新事態によって小浜はいささかは不利となることをまぬがれなかったけれども、ともかく元禄期に至って、今まで生瀬―小浜―瀬川を継ぎ立てる宿場から、荷物継立て量の多い道場河原との間を継ぎ立てる宿場に発展した。おりしも元禄の繁栄期であり、街道を通る荷物の量はとみに増加し、とくに名塩・青野道の街道指定は今までにない繁栄を小浜にもたらすことになったと思われる。