小浜の人馬継立て賃銭

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 元禄期に小浜・三田・道場河原と生瀬との間に青野道をめぐる争いが激化したことにもうかがえるように、寛文~元禄期(一六六~一七〇三)における商品生産・商品流通の発展に伴い物資移動量は増加し、その継立てをめぐって最も有利な立場を築こうとする各宿駅のせり合いが活発に展開された。このような地方の動向は、幕府の駅法を大きく変えさせる起動力となった。幕府は地方の発展に応じて五街道本位であった従来の駅法を、全国的なひろがりをもつ駅法へと変えなければならなくなり、さらに公用継立ての強制に見合う権利・利益の保障を、もっと整備した形で宿駅に対して与えなければならない状況に追い込まれていったのである。この新しい段階に応ずる駅法の改正・整備は正徳元年(一七一一)におこなわれる。
 いまそのことについて述べるまえに、公用継立て業務のことと、一七世紀以来小浜駅について定められてきた御定め賃銭のことについてふれておく必要がある。ここで公用継立てというのは、幕府の御用のために、幕府交付の御朱印証文にしるされた人足・伝馬の員数だけ宿駅が無料で継ぎ立てるものである。その代償として、幕府はそれ以外の御伝馬荷物や一般荷物を継ぎ立てる権利を宿駅に保障したわけで、御定め賃銭はその継立てのさいの公定賃銀である。表54をみられたい。駄賃荷物は一駄四〇貫目、人足の荷物は一人五貫目に限られており、荷物のうち長持一棹(さお)は三〇貫を限度とすることが定められているが、その限度での人足一人・馬一匹の継立て賃銭をしめしたものがこの表である。
 

表54 小浜より隣駅への人馬御定め賃銭と木賃

年次天和2(1682)元禄3(1690)正徳1(1771)
行先瀬川瀬川瀬川伊丹生瀬道場河原
人馬
駄賃銭5572865742254
乗懸け荷
(人とも)
5572865742254
荷なし乗り
(軽尻馬)
3648573726166
夜55
人足賃2736432921125
木賃 主人2735
   召使1317
   馬2735

 
 ただ残念ながら、正徳以前については、小浜と瀬川の間の御定め賃銭がわかるだけで、小浜と生瀬の間のそれは知ることができない。またようやく天和二年と元禄三年の数字しか明らかでない。だが、御定め賃銭はたびたび改訂(引上げ)されたようで、天和以前のことはわからないが、天和二年と元禄三年の間に一、二度、元禄三年と正徳元年の間にさらに二度ばかり(宝永四年とそれ以前に一度)改訂がなされたと推定される。これらの数字は今日明らかにすることができない。