正徳の駅法

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 さて正徳の駅法で最も注目すべき点は往還(街道)でない勝手道を通って荷物を送ることがはっきり禁じられたことである。このことについて述べるまえに、まずそれまでの状況はどうであったかを少し顧みてみよう。
 元禄期に重要勝手道である青野道が街道に指定されたことはすでに述べた。この新街道の指定によって、小浜がこの道を通る御朱印伝馬荷物の継立てをつとめる義務を負ったことはいうまでもないが、それよりもむしろこの指定は、街道を通る一般荷物の継立ての利益を小浜駅なり道場河原駅なりに保障する意味をより強くもっていたといえる。幕府も正徳元年の駅法改正をまつまでもなく、元禄期にあらたに街道を指定し、公用継立ての義務を負わせる代償として、負担に見合う利益を駅所に保障する方向にすでに動いていたことが推察される。しかしこの段階では、街道に指定されていない勝手道を旅人や荷物が通ることを法的に明確に禁じてまで宿駅の営業を保障するというところまでは、いっていなかった。その点を法的にはっきりさせ、宿駅の権利・利益の保障を確かなものとしたのが、正徳の駅法改正である。
 すなわち正徳元年掛け替えになった生瀬駅の高札には「伝馬道にかかわらず荷物勝手に差し出し候儀相留り」という意味のことがしるしてあったという。すなわち正徳元年になって勝手道を通って荷物を送ることが禁じられたという意味である。小浜にもつぎの制札が下付されている。これは小浜の東入口の制札場にかかげられ、安倉―米谷の農道を抜けて旅人・荷物が通過することを禁じたものである。
 
  此道筋へ農人農作之牛馬又は柴薪を取はこび候山人之外一切往還すべからす(ず)、若相背輩あらハ越度可申付者也
  (正徳元年)  (藤堂良直)
   卯五月日     伊予
          (設楽貞政)
            肥前
 
じつはこの制札は、日付は正徳元年となっているが、文言は貞享三年に小浜と米谷とが抜け道その他の問題をめぐって争っている最中の同年閏三月に、大阪町奉行所が立てた高札の文言とまったく同じである。伊予・肥前も正徳元年ではなく、貞享三年当時の大阪町奉行の名のままである。このように、勝手道通過の禁止は具体的な個々の事例としてはすでに正徳元年をまたず、それ以前からみられたことであるが、正徳の駅法において一般的に勝手道の通過を禁じたことが注目される。勝手道通過の禁止、それは旅人・荷物を、指定された街道に限って通すことであり、それによって宿駅に継立ての独占権、したがって利益が保障されたことを意味する。街道・宿駅の特権的性格はこの一事によって確立されたものといえる。
 なお、街道の広範な新設によって、正徳の駅法が五街道本位の駅法から全国的ひろがりをもつ駅法へと飛躍発展したものであることはいまさらいうまでもない。
 要するに、地方の宿駅のいろいろな要求を起動力として、駅法は正徳に至って賃銭・継立法の諸事にわたって最も整備したのである。正徳の御定め賃銭が「正徳の元賃銭」とよばれて幕末に至るまで賃銭の基本とされたこと、またそれ以後間道通過が法に触れるものとして取り締まられるようになったことを挙げるだけでも、正徳元年の駅法が近世の宿駅制度のうえで画期的なものであったことがわかろう。