元禄国絵図の作成

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 元禄十年(一六九七)四月二十七日幕府は全国に国絵図の改正を命じた。国絵図の作成命令は、さきに述べた慶長十年(一六〇五)・正保元年(一六四四)につづいてこれが三度目である。このとき摂津の国絵図の作成については、尼崎藩(青山幸督(よしまさ))・高槻藩(永井直達(なおたつ))・三田藩(九鬼隆久(くきたかひさ))がこれにあたるように命じられた。三藩がどのように分担し協力したか具体的なことはわからないが、自領以外の村々には三藩主連名の触書がだされ、村々から報告を求めたようである。それは多田院村(川西市)の報告が三藩主にあててだされていることから推測されるのである。
 さて三藩からの触書は、幕命の内容をそのまま受けてだされたものであるが、つぎのような内容のものであった。①さきの正保二年の国絵図作成以後五〇年の間にできた新村・新川・新池沼、川筋のちがったところ、大きな道筋で道の付替えがおこなわれたところ、古来の大道筋で通行止めになったところなど、総じて変わった点があれば報告するように。②国境・郡境で正保二年以後争論が起きたところはないか、争論が起きたところについては裁許状を提出するように。裁許がまだのところも事情を報告するように。③村高は一村切りに報告すること。④枝村は親村を書き添え、親村の高のうちか外かをしるすこと、などがそのおもな内容であったが、その他に朱印地となっている寺社領などについても指示がなされている。