いまこの触書にもとづいて作成された摂津国絵図を、さきの正保の国絵図と比較してみると、元禄国絵図に至ってあらたに枝郷の記載の数多くあらわれている点が注目される。市域で記載されている枝郷村々をひろってみるとつぎのとおりである。「南北畑村内北畑新田」は正保国絵図に「小村新田村」としるされていた村(鳥ヶ脇村)で、この一例を除いて他はすべてあらたに記載されたものである。
長谷村枝郷 南北畑村枝郷 米谷村枝郷
芝辻新田村 北畑新田 古米谷 蕨野
中筋上村枝郷 山本村枝郷
中筋下村 丸橋村 口谷村 野里村
あらたに記載された枝郷村々はかならずしも正保二年より後に成立したものとは限らない。たとえば山本村の枝郷丸橋・口谷・野里の三村は、すでに述べたように開村の古い村である。丸橋は天正・文禄(一五七三~九五)ごろの開村であり、口谷は慶長(一五九六~一六一四)ごろ、野里は寛永(一六二四~四三)ごろの開村である(三〇五ページ参照)。米谷村の六軒新田も元和初年(一六一五~)ごろすでにあったとしるす史料がある。これらの例からみて、元禄国絵図にしるされた枝郷は正保以後成立した村とは限らない。ただ元禄国絵図作成のさい、枝郷の記載についてとくに指示したために、ここにはじめて既存の枝郷が網羅的に記載されたものと考えられる。
元禄国絵図で大きく変わったのはこの枝郷の記載であり、それ以外は正保の国絵図とあまり変わらない。街道筋やそこにえがかれた一里塚の位置も正保とまったく変わっていない。なお、元禄期に問題となる青野道付近についてふれると、街道筋としては小浜―米谷―安場から青野道を木元へ通じる道と、安場から生瀬―有馬への道とがえがかれているが、生瀬と木元を結ぶ道筋はえがかれていない。この点元禄十年という時点には生瀬―木元を結ぶ道(新猿甲部道)が正式の街道として認められていなかったことをしめすもので、正確に当時の状況を表現しているということができる。
国絵図の作成に付随して、さらに村別の石高をしるしたいわゆる元禄郷帳ならびに城絵図も国絵図担当の大名から提出されている。正保につづいてあらためて将軍の全国支配、幕藩体制の体制的確立を確認するものであった。