私領巡見使の通過

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 四代将軍家綱の代における延宝六年(一六七八)の巡見についてはすでに述べた(三三八ページ参照)。つぎの綱吉の代天和元年(一六八一)にも巡見使の摂津巡見がみられたが詳細は明らかでない。
 さて宝永七年に私領巡見使の一行は五月八日高槻で泊り、九日から十二日まで大阪に滞在したのち、十三日に尼崎・伊丹を巡見して池田に到着し一泊している。翌十四日には多田院に参詣し広根村(猪名川町)で昼休みをとったのち銀山の瓢簞間歩をみたうえで三田に泊っている。巡路からみて、銀山から三田へ向かうのに、大原野・波豆を通過したと思われる。当時大原野村は直領であったが、波豆村は麻田藩領であったから、この私領巡見使の巡見の対象となったことであろう。
 そして一行は十五日に有馬で一泊している。大阪から有馬までの経路は、後世の私領巡見使がいつも通るおきまりの経路であるから、おそらくこのときも有馬に一泊した後の経路は川面か米谷へでて、そこから西宮―住吉―兵庫の経路をとって巡見したものと思われる。当時安場・川面・米谷・小浜などこの経路にあたるところは私領であったから、おそらく巡見をうけたことと思う。
 つぎに八代将軍吉宗の代の私領巡見は享保元年(一七一六)におこなわれた。巡見使の一行は播磨を巡見して十一月十七日明石から摂津に入り兵庫に一泊、十八日に西宮に泊っている。そのあと十九日に北上して段上村(西宮市)から鹿塩・小林を通って川面で休息をとり、その日は有馬に泊っている。二十二日には池田で一泊しているから、おそらく二十二日に三田から市域北部の波豆・大原野村を通過して池田に至ったものと思われる。
 ついでながら九代将軍家重の代、延享三年(一七四六)の私領巡見についても述べると、このときには四月十三日大阪をたった一行は、当日尼崎・東難波村から塚口村を経て池田に一泊している。そして十五日には湯山(有馬)で泊っているから、その間十四日には池田から市域北部を三田へ抜けて一泊したと思われる。十六日には湯山から米谷へでて休んだのち、小林・鹿塩村から西宮へと通過している。
 それらの巡見の具体的な様子は明らかでない。また御料巡見使が市域北部の直領村々に対しておこなわれたことがあるいはあるかもしれないが、史料がない。おそらくほとんど巡見使の通過がなかったのではないかと思われる。