享保十一年(一七二六)七月十九日摂津有馬・武庫・川辺(南部)三郡地区の川の堤や山の土砂留普請を、幕府は尼崎藩松平氏に担当するよう命じている。ここに市域では、武庫川流域の山や谷ならびに長尾山の土砂留普請が尼崎藩の担当でおこなわれることになったが、そのことについて述べるためには、まず近世初頭以来畿内の河川の治水がどのような形でおこなわれたかについてかえりみておく必要がある。
畿内の河川の治水事業としては、早く文禄年中(一五九二~九五)に豊臣秀吉が淀川堤の普請をおこなったことが知られる。ついで徳川時代に入ると、畿内の大河川の治水事業は幕府勘定奉行の管轄下におかれ、「淀川御国役」「城州(山城)河州摂州和州(大和)大川筋御普請」などといわれる国役普請としておこなわれるようになった。これは大名がおこなう御入用(ごいりよう)普請や村民が自費でおこなう自普請に対して幕府が直接営む土木工事である。幕府のこの国役普請の対象となったのは、はじめは桂・賀茂・宇治・木津・淀・神崎など淀川の本流・大支流と大和川などであった。国役普請の名は、その費用が、幕府から一〇分の一支給されるほかは、残りを畿内諸国の高掛りで徴収されるところからでているのである。
その後元禄二年(一六八九)四月十五日に、摂津の一部と河内国内の国役堤が幕府勘定奉行の管轄から大阪町奉行の管轄にうつされている。と同時に、つぎのように郡ごとに普請を担当する土砂留大名が指定され、大阪町奉行配下の川役与力(川奉行)の取締り下において、彼ら大名たちの担当で普請がおこなわれることになった。国役堤の普請に限らず、小さな山や谷に至るまで、くまなく郡内の土砂留普請をおこなう方向に発展したわけである。
摂津国島上・島下郡、河内国茨田(まんだ)・讃良(さらら)郡……高槻藩永井直達
河内国交野(かたの)・大県(おおかた)・安宿部(あすかべ)郡……………………越後高田藩稲葉正往(まさゆき)
河内国丹南・河内・錦部(にしきべ)・高安郡………………和泉岸和田藩岡部長泰(ながやす)
河内国石川・古市郡………………………………駿河田中藩本多正永(まさなが)
有馬・武庫・川辺郡の土砂留を尼崎藩に担当するよう命じた享保十一年の幕命は、いわばこの元禄二年の幕命の追加拡大というべきものである。そしてかような追加はその後毛おこなわれ、寛延三年(一七五〇)に摂津莵原郡の小河川の土砂留が尼崎藩の担当に、また文化五年(一八二二)には猪名川上流、能勢・豊島・川辺(北部)郡の山々の土砂留が尼崎藩・高槻藩の担当と指定されている。享保十一年の尼崎藩による武庫川流域ならびに長尾山の土砂留普請の開始は、以上のような流れのなかに位置づけられるのである。