尼崎藩が土砂留大名に

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 享保十一年七月十九日尼崎藩が有馬・武庫・川辺郡の土砂留を担当することになって、大阪町奉行所からもあらためてこれに関する書付が九月十七日尼崎藩に手渡されている。内容はつぎのとおりである。このたび武庫川筋の土砂留事業が尼崎藩に申し付けられたが、老中から仰せがあって、従来(元禄二年以降)おこなわれてきた摂津・河内の土砂留と同様、武庫川筋も大阪町奉行所が取り締ることになった。尼崎藩は武庫川筋の土砂留を負担する村々を指定し、それを江戸へ報告し、江戸から承認の令達があれば、その旨を大阪町奉行所に連絡するように、というものであった。
 さらに大阪町奉行所は同年十一月有馬・武庫・川辺三郡の村々に対しても触書をだしている。武庫川筋の山々は土質が悪く、土砂が流出して大水のさいしばしば田畑に大きな被害がでるので、今後土砂留普請を申し付ける。川筋に沿った地域や山方で木のはえていないところには竹木を植え、あるいは葭(よし)や萱(かや)・芝の根を植えて、土砂が流れ落ちないようにすること。川筋や山・河原などにある新田畑はもちろん、高に入っている古田畑でも土砂が流出するおそれのあるところは耕作・開発を禁じ、竹木を植えるように。山中に焼畑・切畑をつくったり川端・川筋に新規に新田を造成することを禁じる。今回尼崎藩に土砂留の担当を命じたので、御料・私領を問わず尼崎藩のさしずをうけて普請に従うように。大阪町奉行所からは川役の与力・同心を派遣して検査するので左様心得ること、といった内容であった。
 同じ十一月にはさらに幕府の触書が、大阪町奉行所から尼崎藩へとりつがれ、尼崎藩から村々にあててつぎのように伝えられている。川筋の古田・流作新田は禁ずる。川の流路にある茶園や密林(蜜柑)畑・竹木・柳・いばらの類はすべて掘り捨てるように。葭・すすきの刈り捨ては四月・五月・七月・九月の四回おこなうはずのところ、近年刈捨ての時期が遅れ、そのため水がでたさい水行のさまたげになっている。今後は四月二十日・五月二十日・七日二十日・九月二十日に刈り捨てること。その他こまごまとした注意書が伝えられたのである。