長尾山の土砂留場見分

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 こうして尼崎藩の担当する土砂留事業がはじまったが、その対象となった地域は武庫川筋はもちろん、その左右の山の谷筋まで、要するに有馬・武庫・川辺(南部)郡内で山くずれ・谷くずれのある箇所すべてであった。そのなかでも問題になったのは長尾山である。もっとも長尾山でも口山の部分はそれぞれ口山を請けている村々単位に普請箇所帳がつくられたが、問題になったのは長尾山の奥山の方である。これはいわゆる五八ヵ村総立会山で、そこを土砂留普請するための人足・諸入用の割賦をめぐって問題が起きているのである。
 尼崎藩は三郡の土砂留を担当することになった享保十一年から普請箇所の見分・指定をおこなってきたが、翌十二年七月いよいよ長尾山奥山を見分することにし、奥山に入り会う五八ヵ村に対して案内の者をだすよう命じた。ところがそのうち二二ヵ村が案内をつとめることを拒否している。拒否の理由はほぼつぎのようなことであった。いままでの長尾山に関する見分では山親切畑村から人足をだしてつとめてきた。切畑村は年々山子村々から山年貢を取っているが、この山年貢のうちから領主(幕府)に山手銀を納め、残りは切畑村が徳用分(利益)として取得している(三五八ページ参照)。日ごろ徳用銀をとっている以上は、切畑村で案内をつとめるべきである、というものである。二二ヵ村から拒否の態度がしめされたため、他の村々も、自分たちだけで案内をつとめるのは迷惑千万であると尼崎藩に申しでてきた。
 尼崎藩はこれに対してとりあえず案内人をだすことを承諾した村だけで案内するように申し付けた。村々はいちおうこれを了承した。しかしこれらの村々は尼崎藩につぎのように願いでた。まえもって入用銀を村々から徴収して賃銀をすぐ払えるようにしておかなければ人足を使うにも差しつかえが生じるのに、拒否の村々がでて人足・入用銀の割賦もうまくできないというのではこまる。だから尼崎藩が二二ヵ村を呼びだして、山手銀高に応じて諸入用銀を負担するよう命じられたい。こう願ったのである。尼崎藩はすでに御用を滞りなく勤めるように触れていることでもあり、あらためて五八ヵ村に対して入用銀の負担を命じたようである。村々は結局この命にしたがって諸費用を負担することになったと思われる。