こうして尼崎藩は享保十二年に長尾山の見分をおこない、山や谷のくずれているところを調べて長尾山土砂留普請箇所を指定した。いま現存する享保二十年二月(二十一年二月も同じ)の普請箇所帳をみると、長尾山のつぎの谷々に山くずれ・山あいくずれ・山根くずれ・谷奥くずれ・谷あいくずれの箇所があって、合計六二ヵ所が普請箇所に指定されていたことがわかる(数字は普請箇所数)。
武庫川左岸…茅ヶ谷・綾ヶ谷1 綾ヶ谷小谷4 水ヶ谷1 長谷川10
十河川左岸(惣川・惣合川)…南しゅる谷9 南しゅる谷小谷5 北しゅる谷2 滝ヶ谷4 溝滝谷4
十河川右岸…藤原谷3 藤原谷小谷2 釣瓶(つるべ)谷1 釣瓶谷小谷8 戌亥谷1 戌亥谷小谷7
この六二ヵ所が五八ヵ村に割り当てられて土砂留普請や苗木の植付けがおこなわれた。すなわち切畑組(切畑・伊孑志・小林・蔵人)が五ヵ所、川面組(川面・安場・安倉・山本・丸橋・口谷・平井)が一六ヵ所、加茂組(米谷ほか)一〇ヵ所、昆陽(こや)組一一ヵ所、大鹿組(小浜・中筋ほか)二〇ヵ所を割り当てられている。
土砂留にしろ植樹にしろ、それはかなり長年月を経て効果をあらわすが、工事を終わると尼崎藩から普請箇所の指定解除がなされた。六二ヵ所のうち延享元年(一七四四)に六ヵ所、寛延三年(一七五〇)に一ヵ所、宝暦二年(一七五二)に二ヵ所、同六年に二一ヵ所、同十二年に四ヵ所と、計三四ヵ所の指定解除のおこなわれたことが知られ、享保十一年以来二〇年、三〇年、四〇年を経てようやく事業の効果があらわれたことがわかる。
その間には享保の飢饉(ききん)があり、村々にとってかなり苦しい時期があった。享保十八年にはつぎのような五八ヵ村からの嘆願が尼崎藩にだされている。近年は不作つづきで、別して十七年は凶作であった。このため農民が困窮して飢え苦しんでいる。どうか農民の力が回復するまで、しばらく土砂留普請人足をつとめること、尼崎御家人が見分をおこなうことを延期してもらいたいというものであった。
以上、長尾山奥山の土砂留普請について述べてきたが、ここに限らず、長尾山の口山や各村域内の山や谷についてそれぞれ普請箇所が指定され、土砂留普請がおこなわれた。大原野・境野・玉瀬などの西谷地区や伊孑志・小林・蔵人・鹿塩の持ち山なども含め、全市域の山や谷が享保十一年以降、尼崎藩のさしずでおこなう土砂留普請の対象となったのであった。