長尾山土砂留場の見分拒否問題ではからずも切畑村と山子五八ヵ村の利害の対立が浮彫りにされたが、それにつづいて切畑村による長尾山奥山内での新開計画をめぐっても両者の対立があらわれ、数年にわたって出入(訴訟)がつづくことになっている。この新開計画は幕府の享保改革における農地政策と関連した問題であるので、つづいてこの問題にうつりたい。
享保八年正月勘定衆千種清右衛門直豊と井沢弥惣兵衛為永が幕命をうけて直領村々の新開場所を見分してまわったとき、切畑村が長尾山内に新田を開発し、また囲林を造りたいと願いでた。そのことを聞いた長尾山奥山立会の山子五八ヵ村は、切畑村が新開のためと称して立会山の土地を囲い込んでいる。これは後になってそこを自村の林にしようとするもので、将来立会村々の支障となることは必定である、と訴えでた。千種と井沢は、山子村々に対して新開した畑のあぜ道まで柴草を刈り取ってよいと認め、切畑村の願いどおり、二五町歩を新開し、二五町歩を囲林にすることを許可する旨言い渡した。
こうしていよいよ長尾山のところどころを選定して定杭がうたれ、新開場と囲林場所が指定された。山子五八ヵ村は今まで村々が刈り取ってきた柴木まで切畑村が切り落として新開をはじめたとして、いろいろと反対行動にでる。このことについては次節の山論のところで述べる(四七一ページ参照)。
その後長く対決がつづき、新開場の問題は五年もかかり、ようやく享保十八年五月十九日にいたって裁決がおこなわれた。切畑村に認めていた二五町歩の囲林は取り上げるが、新開の方は願いのとおり許可する旨が言い渡された。こうして訴訟は落着した。ここに新開が進められ成立したのが、南畑村・北畑村立合新田である。