享保十九年十一月千種清右衛門直豊の手代鈴木仲右衛門・近藤勘助を奉行として検地がおこなわれた。「南畑村北畑村新田検地帳」が作られ、高二六石三斗七升七合、面積一一町四反五畝五歩と決した。ついで翌二十年八月にも代官平岡彦兵衛良久の手代山下助市・依田喜蔵を奉行として検地がおこなわれ、高一六石三斗六合、面積四町七反二畝と決した。両年の検地高は合わせて四二石六斗八升三合、一六町一反七畝六歩であった。これが南畑村・北畑村立合新田である。同年十一月には、代官千種清右衛門直豊から、南畑村や北畑村とは別個に、この南畑村・北畑村立合新田に対して免状が発行されている。高四二石六斗八升三合に対して年貢米三石六斗二升八合と、ほかに一斗九合、合わせて三石七斗三升七合を納めるよう命じられていることが知られる。
長尾山奥山の新開争論が解決して後に開かれた新田としては、この立合新田が知られるが、ほかにも開発された新田があったのかどうかは確認できない。
長尾山奥山内の新田開発計画といえば、じつはこれより先、すでに寛文十二年(一六七二)にも例があった。大阪の河内屋次郎兵衛・太刀屋次兵衛が長尾山の谷々で新田を開発したいと、ときの代官中村杢右衛門之重に願いでているのである。このとき長尾山に入り会っている山子村々から、支障がある旨申し立てたため、代官は、入会村々のうち一村でも故障を申し立てるようなら新田開発を認めるわけにはいかないとして、結局開発を許可しなかった。
ついで延宝二年(一六七四)には大阪の木下久左衛門・長田屋彦右衛門が長尾山内の長谷・片布袋(ほてい)・しる谷・南しる谷に新田を開発したいと江戸へ願いでた。このときにも五八ヵ村は、願人両名が切畑村と結託して五八ヵ村の立会山である長尾山の奥山を切畑村の内山といつわって開発しようとしている、立会山を横領しようとするものである、として故障を申し立てた。ことに川面・安場両村の田地は、しる谷・南しる谷から流れる惣合川に用水を依存しているので、村の上流で新田を開かれては用水に支障がでるとして訴えた。この故障申立てによって、このときも開発のことは許可されなかった。
このように寛文・延宝期にすでに長尾山新開の願いがだされたが、いずれも不許可となっているのである。ところが今回、享保年間に至って五八ヵ村の反対をおし切って新開が許されたわけである。その事情の変化は、享保改革における農政、新田開発の奨励政策と密接に関連してあらわれたものであることを知っておく必要がある。