享保の新田開発奨励

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 八代将軍吉宗の有名な享保改革はまず農政を中心にはじめられた。それは幕府財政の建て直しをはかるために、米納年貢の増徴をめざすものであった。その増徴政策の一環として新田の開発にも大いに力がそそがれることになっている。
 これまでは、新田を開けば肥料となる山草の刈取り場が少なくなるとして開発にむしろ消極的であった幕府であるが、享保七年(一七二二)享保改革が始まると、新田開発に積極的に乗りだすようになっている。農民による開発のほか、町人請負新田・代官見立新田などの形で、開発可能な土地を見立てて新田開発が大規模に進められたのである。それは直領地域に限らない。私領の村でも河川敷は幕府の管轄下にあるとして、そこに流作(りゅうさく)新田が開かれて直領にくり入れられることもあった。また私領が入り組んだところにある山林原野で、領主がたがいに問題の起きることをおそれて開発をさしひかえていたところでも、幕府が見立てて開発し、それを直領にくり入れることもあった。
 宝塚市域では、新田可耕地としてとくに山あいの村の山林原野に目がつけられ、なかでも長尾山内が注目された。享保十七年長尾山のうち小戸村(川西市)の口山であったところに石場山北新開二七石六斗五升六合が開かれているし、同年同じく長尾山内の栄根・寺畑村(川西市)の立会口山であったところに六石四斗六升八合の新田が開かれている。享保十九年・二十年に高入れされた長尾山奥山の南畑村・北畑村立合新田も、このような新田開発奨励政策の流れのなかで、そして長尾山内各地での開発の流れのなかで進められた開発であった。享保の改革における新田開発の推進政策が、他の村々の反対を押し切って立合新田の開発を進めさせた動因であったのである。
 

表56 17世紀後期・18世紀前期の新田開発

村名新田名新田高検地年代
石合
下佐曽利千本新田2.629寛文9(1669)
境野2.220寛文10
556延宝1(1673)
長谷芝辻新田39.352延宝7
上佐曽利5.966天和1(1681)
境野3.784〃3改出
上佐曽利香合新開.637貞享3(1686)ヵ
境野.450元禄2(1689)
上佐曽利香合新田15.185元禄2~4
数合新田33.725元禄2~4
本郷分新田10.742元禄2~4
南畑.220〃3
下佐曽利.119〃3
.977〃4
.121〃5
上佐曽利本郷・数合・香合新開8.716〃5
境野.286〃5
.070〃7
大原野2.644〃7
玉瀬1.909〃7
南畑.611享保8(1723)
玉瀬.092〃8
境野.164〃16
南畑・北畑南畑・北畑立26.377〃19
合新田16.307〃20
安倉(古昆陽井東堤永荒場開発)延享4(1747)
下佐曽利.312宝暦1(1751)

 
 ついでながら、それよりさかのぼって一七世紀後期から一八世紀前期にかけて開発された新田を表示すれば表56のとおりである。享保改革期にさきだって開発されたおもな新田としては、寛文九年(一六六九)検地の下佐曽利村千本新田、延宝七年(一六七九)検地の長谷村芝辻新田、貞享三年(一六八六)検地高入れされたと思われる香合(こうばこ)新開と元禄初年検地の香合新田・数合(すごう)新田がある。
 これらの新田については検地をうけ高入れされた年次がわずかにわかる程度で、開発の事情を伝える史料はない。芝辻新田以下三つの新田と南畑村・北畑村立合新田を除けば、他の新田は高からいっても狭いものである。しかし総じて西谷地区で開発が進んだことがわかる。市域南部では、ほとんど開発の余地はなかったし、用水上の制約もあり、また幕府の享保期における新田開発政策と直接関係のない私領であったために、あまり開発がおこなわれなかったものと思われる。
 南部の新田開発例である安倉村のそれは、武庫川沿いの古昆陽井東堤付近の永荒場を開発したものであった。上流の川面・米谷・小浜村の余水を集めている昆陽井用水の一部をもらい、毎年井料として一反について米一升を昆陽村に渡すこと、旱魃(かんばつ)のときはもっぱら昆陽井用水として取ってよいとの条件で用水を確保し開発が認められたものである。なお山本村の芝地が享保十五年大野新田(伊丹市)として開発されたことについては、都合で後に述べる(四六五ページ)。