享保改革期に幕府が財政建直しをはかるためにとった農政として、ほかにも有毛検見法や定免法、石代値段のせり上げなど一連の政策がある。これは生産力が伸びた畿内・中国筋の直領をおもな対象として、農民たちの労働の成果を余すところなく収取しようとした政策である。
1有毛検見法 まず有毛検見法は収穫期に代官が村々に手代を派遣して坪刈りをおこない、田畑の上・中・下の位づけと関係なしに、村中でたとえば坪当り籾(もみ)一升毛の田が一町歩、九合毛の田が二町三反四畝(綿ならば坪当り二斤吹き、つまり二斤の実がなる畑が五反、四斤吹きの畑が八反九畝、一斤は三〇〇匁=一一二五グラム)というように、有合毛ごとに反別を寄せていく。その集計を合計して村の総収穫籾量をだす。それを籾摺(す)りした後に残る米高に換算し(五合摺りとすれば籾量の半分とみる)、それに租率を掛けて年貢高を決定するという方法である。検地で定めた田畑の品等や石盛をまったく無視する収取法をとった点で従来の検見取りと異なっている。
この方法が法令のうえにあらわれる初見は享保七年(一七二二)であるが、すでに享保初年からおこなわれていたといわれる。もっとも享保期に全面的にこの方法に切り替えられたわけではないが、この方法はつぎのような意味で増徴策につながる政策であった。享保期までにすでに検地後数十年を経過しているので、その間に生産力に変化が生じ、おそらく、もはや検地帳を基準とすることが実情にそぐわないものとなったことによるのであろう。検地帳にしるす田品にこだわらず、細かに坪刈りをおこない、生産力の実体を把握して綿密に貢租の増徴を実現しようとするものである。この方法であれば、幕府は、その都度農民の抵抗をうける年貢率の引上げといった形でなく、合理的に生産力の上昇に応じて増徴をはかることができるのである。
2定免法 つぎに享保期にはじまる定免法について述べるならば、これは過去一〇年間の平均で徴租額を決め、三年とか五年とか年季を限って、その間は年々検見をおこなうことはせずに、定額の貢租を徴収する方法である。この方法は徴租担当の地方(じかた)役人、村役人の不正、中間搾取(さくしゅ)の機会を少なくし、また年々の検見のために要する費用をはぶくことができ、貢租の安定的収取がはかれる利点があるとされる。しかしこの定免法もまた増徴につながるものであった。
享保六、七年のころ幕府財政が悪化し、幕府は旗本・御家人への扶持米の支給にもことかく状態となった。このため、上げ米令や新田開発の奨励、さらに後に述べる石代値段のせり上げなどをおこなうとともに、この定免法を増徴の手段に使うことになっている。すなわち過去一〇年間の平均で免を決めるきまりをくずし、それに増し免を加えることにしているのである。そればかりでなく、定免の年季明けにさいして、さらに免を上げていくことが常識となってしまった。
このようにして農民は、従来どおりの検見取りや有毛検見法によって不相応に高率の収取をうけるか、さもなくば増し免を加えた定免法で収取をうけるか、いずれにせよ貢租の増徴をうけることを余儀なくされていったのである。
なお宝塚市域の例では、下佐曽利村で享保九年から三年季、同十二年から五年季の定免が実施されたのが初見である。享保九年からの三年間の徴租額は本田が一〇一石九斗九升四合、新田が八斗六升であったのに対して、十二年からの五年間はそれぞれ一〇八石八斗八升五合、九斗九升一合で増加をしめしている。
3石代値段のせり上げ つぎに享保期の石代値段のせり上げについてもふれなければならない。従来三分一銀納・十分一大豆銀納の石代値段は、畿内では京・大阪・大津における米・大豆値段のそれぞれの平均相場に若干の増し銀を加えて決定されたことはすでに述べたが(三七七ページ参照)、享保七年八月には農民に対してこれまで銀納していた三分一銀納をも残らず米納するよう命じている。これは、畑の年貢に相当する部分まで米納に切り替えることを意味し、それが農民にとっては困難であったうえ、皆米納では諸費用がかかって迷惑な点もある。そのことを承知で幕府は皆米納を農民に強制したのであった。そして農民がこれを断わり、石代納を願いでれば、その石代値段を何度も交渉させてせり上げるという策をとったのであった。また享保十年には農民の側から石代納を願いでた場合ならびに口米の石代納の場合には三分一銀納の石代値段よりもさらに五匁高とする規定も定めている。この口米の石代値段の規定は幕末までつづく制度となる。
しかしこの石代値段のせり上げについては、とうぜんながら農民からの強い抵抗があった。このため幕府は譲歩を余儀なくされ、享保十九年には、摂津の直領では大阪・尼崎・高槻・三田・富田(とんだ)の十月十五日から晦日までの米・大豆の平均相場をだし、その値段の六匁高に三分一銀納・十分一大豆銀納の石代値段をおさえることに改めている。
4田方木綿勝手作仕法 以上述べた享保改革期の増徴策のほかにも享保二十年の田方木綿勝手作仕法がある。これは今まで禁止されていた田方での綿作を自由におこなってよいことにし、その代わりに豊作・凶作にかかわらず徴租率は稲作の上々毛なみとする仕法である。享保期の増徴策もいよいよきわまった感があるが、こうしてあらゆる手段で増徴をはかったことが知られるのである。