この享保期における貢租の増徴策をうけつぎ、この面での享保改革の総仕上げを強行したのが神尾若狭守春央(はるひで)である。元文二年(一七三七)六月に勘定奉行となった彼は、畿内・中国筋での貢租の増徴をめざした享保以来の諸政策がかならずしも成果をあげておらず、また代官の気構えがゆるんでいるとして、これを督励するために、延享元年(一七四四)みずから上方巡見の途についている。
神尾は同年六月、村々に巡見のことを伝えるつぎのような内容の触書をだしている。①巡見にあたって無益の費(つい)えをしないように。②今回巡村するのは神尾のほか勘定組頭堀江荒四郎芳極(ただとう)・勘定遠藤七郎左衛門良安・支配勘定楠伝四郎正敦・普請小役人三人である。それに必要な規定の人馬数以上に無用の人馬を使わないように。③村方に提出を命じた書類はまちがいないようにしたためること。それを、巡見回村の二、三日前に巡見使の宿泊所へ届けること。④村方からのいろいろな訴えは巡見の支障になるのでいっさい受け付けない、といった内容の触書であった。
この触書は川面村には代官を通じて七月に達せられている。同村ではこの触書を順守する旨の請書を九月に代官に提出したが、その請書にはさらにつぎのことも書き添えられていた。早稲は代官の検見がすんだのちも田ごとに二間四方だけは刈り取らずに残しておくこと、また中稲・晩稲・木綿については、代官の検見がすんでも巡見が終わるまではいっさい刈り取らないようにする、という内容であった。
さて、神尾の巡見が宝塚市域でいつおこなわれたかについては明らかでない。しかし川面村で右に述べたような請書をだしていることではあるし、この巡見にそなえて、同年八月見佐村が提出した「見佐村新川成之総(絵)図」の写しが小浜村に残っている。また寺畑村(川西市)でも同年七月巡見の先触に対して村中が承知連判証文をしたためているから、同年中に神尾の宝塚地方回村がおこなわれたものと思われる。