神尾はこの巡見を通じて代官の徴租を督励したようで、ために各地における徴租額はこの巡見を契機に飛躍的に増加したといわれる。ただし宝塚地方においてはつぎのような事情によってその増加ぶりを明らかにすることはできない。それは、元文五年(一七四〇)に武庫川の大洪水があり、田畑の荒れがひどく、当地方の村々では同年以後の徴租額がいちじるしく低下した。洪水直後の寛保年間の徴租ももちろん低額であった。神尾若狭守の巡見がおこなわれたと推測される延享元年ごろは、災害からの回復期にあたり、したがってそのころの徴租額を、寛保年間のそれと比較してみても、巡見による徴租額の増加をみるうえにはほとんど意味がないように思われるからである。たとえば下佐曽利村については巡見の前後の年の徴租額がわかり、前後比較できる。それをみると、確かに徴租額は元文・寛保年間よりも延享年間の方がはるかに増加している。しかしその増加が洪水後の復興によるものなのか、増徴策の結果なのかを判別することはむずかしいのである。
それにしても、多田銀山の吹方(製錬技術者)ら鉱山関係者が住んでいる山下下財屋敷(川西市)や銀山町(猪名川町)で、延享二年につぎのような変化のみられることは、神尾の指示による北摂地方での増徴策の実例とみることができる。山下下財屋敷は天正二年(一五七四)に集落が成立したが、以来ここは除地(年貢免除地)としてつづいてきた。ところがこの下財屋敷について神尾巡見後の延享二年に検地がおこなわれ、以後高が付けられ年貢を上納するようになっている。また銀山町でも同年に、かつて代官屋敷地であった土地(畑地)や高札場の高入れがおこなわれ、さらに下財屋敷同様、屋敷地に高が付けられている。これらは神尾の増徴督励のあらわれとみることができる。
この神尾春央による「前代未聞之御高免」といわれた増徴の令達によって、直領の貢租は激増した。このため延享二年正月には、摂津・河内・和泉・播磨の農民二、三千人が大阪町奉行所に減免を出訴したといわれ、そのほか摂津国東成郡二四ヵ村農民の江戸への出訴、河内国茨田・讃良両郡農民千五、六百人の大阪町奉行所への出訴など、村々の減免闘争は各地で激しく起こっている。これに対して神尾はなおも強硬策をとった。寛延元年(一七四八)には有毛検見法の全国的実施(直領村々)を命じ、宝暦元年(一七五一)にかさねてその励行を命じている。この有毛検見法と田方木綿作勝手仕法の励行による増徴が畿内の農民の経営を大きく圧迫した。まことに「胡麻(ごま)の油と百姓は絞(しぼ)れば絞るほど出るもの」ということばをはいたといわれる人物にふさわしい徹底ぶりであった。
もちろん以上述べてきた増徴策は直領村々に実施されたものであり、私領ではかならずしも同じ方法がとられたわけではない。享保以来将軍吉宗が将軍職を退く延享二年ころまで、享保改革における農政は貢租増徴政策に終始したものといってよい。