享保十四年(一七二九)四月、大阪町奉行所からつぎのような通達が村々にとどいた。浪人並河(なみかわ)五市郎というものが、『五畿内志』を編集するため畿内五ヵ国を回り、旧記を調査する。彼は寺社奉行・勘定奉行の印形のついた証文を携帯している。地元のものはつぶさに旧事を彼に伝え、寺社・名所・旧跡や村の水帳などを見たいといえば遅滞なく見せるように。そして彼の旅宿についても配慮するように、といった内容のものであった。
並河は丹波の生まれで、伊藤仁斎(じんさい)の門に学んだ儒者で、誠所(せいしょ)と号した。すでに享保八年幕命をうけて京都・奈良・大阪を中心に畿内の古書籍の探索をおこなったが、そのときの経験にもとづいて地誌の編集を思いたったわけである。そして寺社奉行大岡越前守忠相(ただすけ)の支援のもとに地誌の編集にとりかかり、とくに神社仏閣の由来をさぐり、なかでも『延喜式(えんぎしき)』の「神明帳」にしるされている、いわゆる式内社の究明に努力した。
この並河の調査は、久代村(川西市)では十五年四月におこなわれたが、宝塚市域の調査がいつなされたかは明確でない。ただ米谷村の一史料に、享保十四年に通達があってから二年ほどしておこなわれたという記事があるから、享保十六年のことと思われる。並河は門弟たちをつれて村々を回り小浜に泊った。そのとき米谷村庄屋は呼ばれて小浜村にでかけた。並河から名所・旧跡・寺社のことを尋ねられ、とくに清澄寺のことをくわしく申し述べた。また村の名寄帳にちご石という字(あざ)があることに目をとめた並河から、これについての言伝えはないかを尋ねられたりしている。さらに翌日には並河を案内して清澄寺へいき縁起や宝物を残らず見せ、清(きよし)の古跡へも案内した。