並河の畿内の調査は足かけ六ヵ年を要したが、この調査にもとづく『五畿内志』の完成のあと、余力をかって式内社に石碑を建てる事業を起こした。並河を助けた武右衛門(久保姓、後述)の言によれば、日本国内のすべての式内社に石碑を建てることが願いであるが、費用がかさむのでとりあえず社号が変わってしまっている畿内の式内社について、社号を正す意味で石碑を建てることにしたという。
元文元年(一七三六)六月十六日並河は幕府に書を呈して畿内での建碑の許可と援助を願った。幕府はこれに許可を与え、この事業にたずさわる摂津国東成郡赤川村(大阪市旭区)の庄屋武右衛門に米一〇俵を下すこと、許可の旨を大阪町奉行所に連絡しておくので、大阪町奉行所の指示でことを進めるようにとのことをしるした免許状を並河に手渡した。そしていよいよ実現の運びとなるが、まず大和から始め、ついで摂津の二〇社について、社名を延喜当時に復するために建碑をおこたった。その二〇社のうちに米谷村の売布(めふ)社も含まれていた。
売布社のことを、当時、村人は「貴船(きぶね)大明神」・「貴布禰社」などと唱えていたが、社名を唱えちがえているとして、式内社名である「売布社」にもどすために、建碑がされることになったものである。
九月十日に、二〇社の所在地村々に対して、大阪町奉行所に出頭するよう指示があった。このとき米谷村の庄屋も出頭したが、大阪西町奉行松平日向守勘敬(すけゆき)は庄屋たちに向かって、今回寺社奉行大岡越前守忠相の命で二〇社に石碑を建てる。大阪の石屋へ人足を引きつれて石碑をとりにくるようにと申し渡した。ついで町奉行所の役人から、石碑の台石を遠方へ運ぶのが迷惑であれば、石碑だけもち帰り、台石の方はその地の山石でつくるように、また建碑の場所等については東成郡赤川村庄屋武右衛門の指図に従うように申し渡された。
その後十月二十六日、建碑の下準備のため武右衛門が米谷村に来て、社で石碑建立の場所を指定し、庄屋・年寄からつぎのような内容の一札を取って帰っていった。売布社の石標は氏神拝殿の前一丈二尺を隔て、南向きに建てること、指定した場所とちがわないように建てること、もし損傷した場合にはさっそく修復することを約束する一札であった。
なおそのさい、村人は、いままで氏神貴布禰社と称していたところをなぜ売布社と社号を変えるのかと武右衛門に尋ねた。武右衛門はこの社の神は延喜式内の神で朝廷から祭られ、当時売布社と称していたので、この石碑を建てるのだと答えた。
十二月に入って米谷村は、大阪西横堀の石屋某で石碑を受領するようにとの回状を受けた。そこで庄屋は人足をつれて大阪におもむき、石碑と台石を受け取って帰り、武右衛門が指定したところに建立した。いまも社前にみることのできる社号石である。
この標石は方二四センチメートル・高さ九一センチメートル、正面に「売布社」の文字を刻み、右側面(標石に向かって右)に鎮座地の村名「米谷村」の三字を刻んでいる。台石は二段で、下段は方六一センチメートル・高さ四六センチメートル、上段は方四二・五センチメートル・高さ二三センチメートル、上段の台石の裏面に「菅広房(すがひろふさ)建」の字が刻まれている。菅広房というのはこの建碑のために金二〇両を誠所に寄付した山口屋伊兵衛のことである。
こうして社号標石が建てられたが、米谷村の村人もさきの武右衛門の説明を納得し、貴船大明神を以後売布社と称することになった。さきに宝永年中鳥居に掲げた黄檗(おうばく)悦山筆の「貴船大明神」の神号扁額も取り除き、「売布社」の扁額を掛けることにした。
なお売布社とともに社号標石が建てられた摂津の式内社二〇社のうち、市域に近いところにある社はつぎのとおりである。河辺郡上坂部村伊佐具(いさく)社(尼崎市)・平野村多太(ただ)(たふと)社(川西市)・高平谷酒井村高売布(たかめふ)社(三田市)、武庫郡小松村岡太(おかだ)(おかた)社(西宮市)、能勢郡地黄(じおう)村野間社(能勢町)、有馬郡西尾村有馬社(神戸市)、莵原郡五毛(ごもう)村河内国魂(かわちくにたま)社(神戸市)、豊島郡白島(はくのしま)村為那都比古(いなつひこ)社(箕面市)・吉田村細川社(池田市)。